○はじめに

遊女の流れ

 関東の「芸者」(げいしゃ)、あるいは関西や長崎の「芸子」(げいこ)は、あらたまった呼称、あるいは公式用語としては「芸妓」(げいぎ)と呼ばれる。芸者・芸子は、江戸時代から明治・大正期にかけて全盛期を誇った宴会専門職の女性であり、万葉集の時代の「遊行女婦」以来、時代により「遊女」「傀儡女」「白拍子」「遊君」「踊り子」「芸者」「女給」「ホステス」などと場所と名を変えながら続いてきている遊女の流れを汲んでいる。

 芸者・芸子という語は死語となりつつあるが、日本古来の遊女の伝統がなくなってしまうわけではなかろう。なお、遊女(ゆうじょ)は「あそびめ」とも称されるが、もともとは、「遊ばせてくれる女」というより、「遊んでいる女」という意味である点に注意が必要である。遊女の歌を国歌にしている国は日本だけであろう(巻末コラム1「遊女が謡った「君が代」」参照)。

 遊女には「芸のある遊女」と「芸のない遊女」とがあり、後者は娼婦と位置づけられる。我が国では、前者の流れが主流である点に特徴があると考えられる。

 芸者は「芸をもつ遊女」というメインの流れに属しているが、江戸時代以降、幕府の位置づけにより、遊女が、女郎・花魁と芸者・芸子に役職分離したため、娼婦的な役回りはタテマエとしてもたないものとされるに至った。それでも芸者が遊女と見なされてきたのは、遊興に不可欠の歌舞音曲の芸で身を立てているのみならず、「旦那」と呼ばれる準夫婦関係を結んだ者から金銭的支援を受けることが多いためであった。沢尻エリカに代表される現代の女性タレントの場合は、「旦那」が「準」夫でなく「一時的」夫に変化していると考えれば、やはり、遊女の流れに属しているととらえられる。何かと騒がれることの多い女子アナも見方によっては芸妓的伝統の流れの上にある(図録5660)。

 戦前のカフェの女給は今ではクラブのホステスになっている。銀座の「クラブ由美」のママ伊藤由美は、ホステスについて次のようにいっているが、この仕事が遊女的な流れにあることをよく示している。「夜の銀座で見る、紳士と淑女の粋なひとときの夢−その舞台をご用意するのが私たちの仕事なのです。決して安くない夢にお誘いするのですから、夢のパートナーとなる女性にも当然、それだけの価値が求められます。銀座のクラブは夜八時から深夜零時までの営業が一般的。銀座のクラブで働く女性は、この”四時間ドラマの女優”というのが私の信条です。店の女の子にも常に「お客さまの夢のドラマを彩る女優になりきりなさい」と言っています。さらにお店で「彼氏がいる」は禁句。「もしいても言わないでね」と。擬似恋愛や恋人気分を味わいたいと思っておられるお客さまが多くいらっしゃるのに、はなから「彼氏がいます」と言われたら、一気にシラけて夢が覚めてしまいますもの。ですから”四時間ドラマの女優”である間はその夢に応えて差し上げる。それがこの仕事の神髄なのです」(東京新聞「私の東京物語」2016年4月27日)。
芸妓と花街

 ここでは、昭和初期に、東京の芸者、あるいは大阪、京都の芸子が各花街(かがい)に何人ぐらいいたかの数字をグラフ化した(奈良時代〜鎌倉時代の遊女中心地については図録7240参照)。なお、一人前になる前の若い芸妓を半玉、おしゃく、舞妓などと称する。三都を除く全国の花街の芸妓数は図録7847参照。現代の京都・東京の芸妓数は図録7845参照。

 花街の構成は、宴席専門の芸妓のみの場合もあれば枕席(ちんせき)専門の娼妓のみの場合もあれば、両者が混合している場合もある。二流以下の花街では、芸妓のみの花街であっても宴席を盛り上げるるとともに接待の延長で枕席に侍る芸妓(この合意を得ることを「転ばす」といった)、あるいは枕席専門の芸妓(不見転「みずてん」芸者)がいない訳ではなかった。花街は花柳界とも呼ばれるが、戦後、娼妓が禁じられたため、花柳界というと芸者まちのイメージが強い。

 芸妓と娼妓は免許のことなる別々の存在であったが、東京では、基本的に芸妓のみの花街と娼妓本位の花街とに明確に分かれており、関西の場合には、芸娼妓混合・両本位の花街が多かった。花街は江戸時代の岡場所(吉原や島原といった公認遊郭以外の色里)に起源を有する場合が多いが、江戸時代に、将軍のお膝元である江戸においては、岡場所における売娼行為の禁止を原則崩さず、検挙された娼妓は足を洗わない限り吉原遊郭に送られるという形を取り続けたのに対して、京都においては、江戸と同様に取締りを行ったが徹底できず、本来の許可地である島原遊郭の出張所として祇園などの岡場所が位置づけられ営業継続が半公認されるという形をとった。こうした歴史の違いが芸娼妓配置に関する明治以降の東京と関西の花街のあり方の差の原因となったと考えられる。

 東京の花街は三業地の指定により営業していた。ここで三業とは芸者置屋、料理屋、待合のことであり、三業組合の事務所として見番(検番)がある。待合は貸席業であり料理は仕出しによる(花街によっては宿泊も可)。他の花街での営業や船遊び・行楽地への同行など所属三業地以外での芸者の活動は「遠出」と称して別料金となる。これを含めて、芸者の花代(時間料金)は席代とともに料理屋が決済していた。同じ花街の中では客は馴染みの料理屋や芸者を優先し、逆に料理屋や芸者も贔屓筋を大切にし、それを相互に尊重し合っていたが、花街がちがえばそうした配慮は必要なかった。なお、戦後は、料理屋と待合はともに料亭と名乗るようになった。

 大阪と京都では芸妓が料理屋へ入らない。また大阪では、芸妓は検番ではなく花街ごとに「店」という芸妓扱席に所属。関西の娼妓は、遊郭の居付き女郎でない限り、各自が家(家形)を有し貸席に招かれて営業し、東京などの娼妓のように妓楼居住の籠の鳥式束縛を受けない、など関西と東京では花街の仕組みが異なった。

○東京



 関東大震災後の芸妓数は、東京府で約1万人、愛知県、大阪府がそれぞれ約5千人といわれるが、図で取り上げた東京の芸妓数は合計8,943人であり、ほぼ全体をカバーしているといえる。

 東京では、「柳橋」と「新橋」を柳新橋と称して2大花街とする場合がある。

 「柳橋」は、吉原、深川などへの舟運(猪牙舟「ちょきぶね」)の出発地に位置し、元吉原から発した踊り子・三味線師匠の流れに、天保の改革の幕府による取締りで流れてきた深川の辰巳芸者などを加え、浅酌低唱の客を集めて大繁盛し、明治時代のはじまりの段階で、江戸の伝統をひきつぐ町芸者の開祖となった花街である。古来遊女は川遊びとの親和性が高いが、柳橋では大正の初めごろまで、駆け出しの芸者のことを「あの妓(こ)はまだ船もうまく乗れない奴だ」といったそうである(滝川1958)。

 「新橋」は維新の志士との付き合いが深く、明治の交通新拠点に開かれた新興の花街であり、明治に入って柳橋を凌駕する威勢をしめした。戦後も外務省が海外の賓客を迎えた。芸者の本場とされる柳橋の芸者が基本的に江戸っ子のベランメイ女であり、明治の官員となった田舎武士とそりが合わなかったのに対して、新興の新橋芸者は現金主義で人みしりをしないところが新時代にふさわしく、繁昌の中心が柳橋から新橋にシフトしたのも同じ理由とされる(三田村1926)。

 柳新橋に軍人や政治家を客に迎えて繁昌した「赤坂」(別名「溜池」、「山王下」)を加え、この3者が三和会という親睦会を組織し、芸で身を立てる宴会専門の花柳界として他とは異なることを暗に主張していたことから3大花街とする場合もある。

 人数的に最も芸妓数が多かったのは、この3花街ではなく、浅草寺の門前町で有名な料理屋が多かった「浅草」であり、大衆的な土地柄で上京客の遊び場所として栄えたという(新橋は駅の反対側の新橋烏森とあわせると最多であるが両者は別の花街)。

 次ぎに人数の多いのは東京で最も古い江戸初期以来の歴史を持つ「芳町(よしちょう)」である。分散していた遊里を湿地帯の埋め立て地である吉原(葭原)に1618年に集めたことにはじまり、陰間茶屋(歌舞伎俳優が舞台の合間に男娼として、兼業で、あるいはのちに専業で色を売った店)があった。明暦の大火で新吉原に移転した後も踊り子が芸者に転じ、明治以降、下町の商工業者をお客に繁昌した。
 
 江戸時代の公認の遊郭として一大中心地だった「吉原(新吉原)」は昭和初期にも洲崎と並ぶ大娼妓地区であった。新たな中心地として人口が急増していた江戸に流れ着いた遊女の末流が、江戸版白拍子として踊り子を業とするようになり、さらにその後歌舞伎、浄瑠璃にならって三味線を弾き唱いするようになった。そして、最後には、幕府の不許可売春取締りによって吉原に送り込まれ、幇間とともに吉原遊女の引き立て役(宴会専門職)として吉原芸者が誕生したとされる。こうした経緯により吉原芸者がそれ以後の芸者の本家本元とされる。吉原以外の遊里は非公認ということで岡場所と呼ばれたが、岡場所の芸者は町芸者と呼ばれ吉原芸者と比べ一段低い位置づけとなっていた。19世紀安政年間には300人を越えるまで増加した吉原芸者であるが、昭和初期までに他所への転出も多く、人数的には少なくなっていた。幇間がなお多いのも吉原の特長であった。

 最後の吉原芸者といわれるみな子(2009)が戦前の吉原芸者の気風を伝えている。吉原芸者に敬意を表して吉原芸者が使う白い半襟を余所の花柳界では使わず必ず薄くても色付きの襟をつけていた。また吉原芸者はお披露目(デビュー)について余所のように旦那の水揚げや資金援助の習慣が無く自前で調達するなど芸一本で身を立てる気風があった(花魁の職域を極力おかさないということだと考えられる)。気位が高い分吉原芸者は貧乏。などといったことが語られている。

 「深川」は、江戸時代、公許であることにあぐらをかいて衰微した吉原に代わって繁昌した岡場所であり、本来男にしか許されない羽織を着てお侠(おきゃん)で鳴らした辰巳芸者(羽織芸者)が、男嫌いのふりをしてそれでも最後には身を任せる手管で評判をとった。吉原とは逆に女郎(娼妓)は芸者の風下に立つことになり、これが、柳橋、そして明治以降の花柳界の基本スタンスとなった。天保の改革の取締りで衰え、明治はじめに娼妓が洲崎に移されたのち、昭和初期には三流どころの花街となっていたが、面長で義理堅く人情に脆い深川芸者は羽織芸者の流れを汲んでいたといわれる。

 「日本橋」は、新吉原への移転の際に元吉原の一部が移り、また深川の瓦解(天保の改革)で柳橋とともに一半が流れ込んで来たという歴史をもつ古い花街であり、下町風の昔の町芸者気風(かたぎ)が残り、官吏・政治家には向かない場所といわれる。

 「神楽坂」は毘沙門天の門前町で、尾崎紅葉の硯友社など文士の利用、低廉な価格で人気があった花柳界だったが、昭和に入って妓品の向上を目指し、とかく乱脈な営業の目立った他の山の手の土地とは異なるという気概を見せたといわれる。

 「下谷」は「池之端」、「湯島天神」は「天神下」とも呼ばれ、この2地区は春日通りをはさんで隣接しており、両者を合わせると都内最大規模の花街のひとつとなっていた。上野寛永寺周辺の上野広小路や山下などの火除地は茶屋や見世物などが多い江戸有数の盛り場となっており、天保の改革で一掃されるまでは茶汲み女らしく前垂をつけて笑いを売る山下のケコロが繁昌していた。これらが戊辰の役で焼失した後、上野の山内に再びあらわれた茶屋や遊女は、博物館などの上野の公園計画により取払いとなり、上野駅開業(1884年)などで転出を余儀なくされた山下の店々とともに、不忍池を望む池之端、あるいは旧武家屋敷地だった新興の湯島天神下に移って一大花街を形成した(神崎1993)。不忍池の眺めが特徴の「下谷」は地元商家の旦那・番頭、本郷界隈の学生客の客が多かったという。

 今でも大塚三業通の路地の看板がある「大塚」は昭和の初めごろまで流れていた谷端川ぞいの風情の好さ(昭和箱根と呼ばれた)から料理屋が集まり関東大震災で都心の新橋や芳町から転出した料亭を迎えて繁昌した。現在は芸者10人弱、料亭・料理屋5軒という(東京新聞2012.7.27)。

 「尾久」「五反田」は鉱泉を掘り当てた新開地であり、はじめは旅館の女中に怪しい振る舞いをさせていたのが許可地となり芸者街に転じたもの。西尾久碩運寺境内で1914年に見つかったラジウム鉱泉が「寺の湯」と名付けられ周辺が三業地として発展した「尾久」(荒川区)は阿部定事件(1936年)の舞台となったことで知られる。阿部定とその愛人石田吉蔵は中野区の料理屋「石田屋」の従業員と店主だったが尾久の待合「満佐喜(まさき)」における一週間の情事の果てに事件を引き起こしたのだった。尾久検番には日本初の芸者学校ができたという(東京新聞2012.7.22)。

 「芝浦」は明治末期以降に埋立がはじまるまでは都心から近い眺望の良い粋な海岸リゾート地域として、また落語で有名な芝浜にあがる鮮魚などの料理屋街として栄えたため花柳界ができた。旅館・待合が文士のサークル室のように利用されていた(小山内薫・谷崎潤一郎など2次新思潮グループや青山二郎・小林秀雄・中原中也グループ)。巻末表の通り、料理屋が多い点が特徴である(図録2670参照)。

 東京新聞2015年3月27日号には「大井芸者どっこい生きてます」という見出しで、「大井」から「大森海岸」にかけては、東京五輪をきっかけに海岸線が埋め立てられる前は海水浴場と料亭で賑わい、料亭の「客は裏口から海へ出て、芸者を乗せた船で東京湾の遊覧を楽しんだ」ことが紹介されている。

 なお、明治時代の東京の各花街の芸者の写真が、「明治大正1868-1926」というサイトの「東京百美人」のコーナーに多く掲載されているので、気になる方は参照して欲しい。

○大阪・京都

 大阪、京都については、江戸時代の吉原にあたる公許の遊郭であった場所は、大阪は新町、京都は島原であるが、ともに昭和初期には娼妓本位の花街であった。

 大阪は、奈良時代の港町難波津以来の長い花街の歴史を有する。大阪の宗右衛門町に代表される「南地」は「島の内」とも呼ばれるが花街の代表格ということで東京の新橋に当たる。また、北の新地、北陽とも呼ばれる「曾根崎新地」は芸と粋(意気)に優れた柳橋ともいわれる。もっとも客層から言うと、南地が船場の旦那衆中心に対して、曾根崎新地は、官庁向きといった風らしい。

 平安時代以降江戸時代まで日本の首都であった京都も大阪に次ぐ花街の長い歴史を有する。京都については、江戸時代に公認遊郭であった島原が江戸の吉原に当たり、非公認であった祇園は江戸の深川・柳橋に当たる。

 「祇園」は祇園社(八坂神社の旧称)、円山、清水寺などへの道筋に当たる地域に近世初期から栄えた茶屋、水茶屋の茶汲女がおこりである。祇園芸妓の歴史は古い。秀吉没後、北政所は大阪城を出て1599年に京都三本木に落ち着き、その後、家康の後押しで建立した高台寺に1605年に移り住んだ。北政所のところに集まってきていた白拍子の流れを汲む舞芸者たちが三本木や高台寺近くの下河原・円山の芸妓となり宴席に招かれ祝儀をもらい芸で身を立てるようになった。南向きの祇園の正面石鳥居の前の通りが下河原であり、下河原の「町芸者と称する」(京都坊目誌)芸妓が「旧風を存し、品格の正しき」ヤマネコ(山猫、山根子)として知られるようになり、のちに鴨川べりへ進出、茶汲み女と合流して、祇園芸妓の起源となったといわれる(明田鉄男1990、加藤政洋2009)。なお、三本木は1876年頃消滅し(1900年料理屋「清輝楼」の2階で京都法政学校、のちの立命館大学が創立)、下河原は1886年祇園甲部に吸収された。

 祇園は、江戸時代に公許の島原に対抗して繁昌した岡場所であり、幕府による寛政二年(1790年)の不許可営業一斉取締りで1,147人の芸子・娼妓が召取られ、島原に送られたが、島原には受入能力がなく、結局、島原の出先という形を取って祇園新地が公認された。明治に入って、芸娼妓分離政策の下、東京では深川の娼妓が洲崎に移されたように、祇園町では、明治14(1881)年、芸妓の甲部遊郭と娼妓の乙部遊郭に分けられた。祇甲と祇乙のおこりである。映画監督溝口健二のリアリズム開眼作である「祇園の姉妹」(1936)の舞台にはあえて芸娼妓が混合する祇乙が選ばれ、内容を含め花街関係者の不評を招いたとされる。今では当たり前となっているが、はじめて現実の人間像を描いたことでその後の日本映画に大きな影響を与えたといわれるこの映画が花柳界を題材としている点が興味深い。祇乙は北側に膳所藩屋敷があったことから膳所裏とも呼ばれていたが、現在「祇園東」となっている。

 「先斗町」は江戸時代三条の橋のたもとに出来た祇園より新しい細長い花街であり、有料マンスリーワイフというべき「わたぼうし」が名物となっているなど近世では娼妓が主の遊里だったが、維新とともに芸妓中心に転換。一見(いちげん)の旅の者では楽しくもない祇園と異なり、初会から親しみやすく遊べる所だったという。

 「宮川町」は四条河原での二代目阿国の歌舞伎興業、その後の若衆歌舞伎の小屋と男色を売る陰間茶屋から発展した花街といわれる。「音羽屋」「成駒屋」といった歌舞伎役者の屋号は当時若衆が出入りした宮川町の宿屋の屋号に由来する。昭和初期には多くのダンス芸者がおり、今も「群舞い」が素晴らしいという。

 「上七軒」は北野天満宮とのむすびつき、女かぶき踊り興業、秀吉の「北野大茶の湯」の際の茶屋免許などにさかのぼることができる古い「芸の町」であり、西陣旦那衆が祇園より地元上七軒を愛して育ててきた影響が大きい。

 なおこれら京都花街の芸妓が明治維新の際に勤王の志士と深い交流があった点については巻末コラム2「京都の芸妓と維新の志士」参照。

東京・大阪・京都花街の芸妓(芸者・芸子)(昭和初期)

【東京の花街】
  花街名 芸妓数 うち小芸妓 料理屋・待合 うち料理屋 うち待合 備考
千代田区 講武所 152 22 31 10 21 幇間1人
富士見町(九段) 340 30 124 4 120  
中央区 新富町 201   76 6 70 短命だった外国人相手の明治初年の遊郭新島原のあと
霊岸島 84 10 33 12 21  
日本橋 287 26 60 9 51  
芳町 713 84 313     幇間4名。出先のうち160軒は柳橋と共同出先。芸妓屋組合は浜町一つだが、出先は浜町と蛎殻町と別
新橋 669 36 175 9 166  
港区 烏森 294 23 106 11 95 幇間6人
赤坂 425   100 10 90 別名、溜池、ないし山王下
麻布 136 12 62 14 48  
芝浦 150 13 121 48 73 (昭和5年東都芸妓年鑑による)
新宿区 神楽坂 619 67 144 15 129 芸妓の7割以上は旧券、残りは新券に属す。のち一本化
四谷荒木町 252 26 76 13 63  
四谷大木戸 99 6 43 3 40  
新宿(娼妓地区) 26 8       娼妓550名
文京区 白山 302 33 102 17 85 幇間4人。樋口一葉「にごりえ」で有名な私娼窟が発達した街
湯島天神 120 10 46 15 31  
駒込神明町 202 17 88 21 67 幇間3人
台東区 柳橋 366   62     浜町・矢の倉・中洲方面160軒も芳町との共同出先
浅草 750   290 37 253 別に「浅草西見」所属の120〜130名の芸者あり
吉原(娼妓地区) 155         娼妓2469名(昭和4年3月)、幇間27人。仲之町芸者85名と京町(または横町)芸者70名に分かれるが前者が本来の吉原芸者
下谷 426   140 20 120 別名「池の端」。芸妓組合は「下谷」と「同朋町」の二つ
亀戸+ 130   85 9 76 松川二郎(1929)によると6割以上は新券、残り新券
墨田区 向島 239   153 23 130  
江東区 深川 149 19 50 14 36  
洲崎(娼妓地区) 80 30       娼妓2210名
品川区 品川(娼妓地区) 48 8   15   娼妓400名
大井+ 250   69 39 30 最盛期約400人の芸者がいたが、現在は15人となっている。置き屋は4軒(東京新聞2015.3.27)。最盛期の人数は隣接する大森海岸と合わせた人数かもしれない。
五反田 220   70 25 45  
大田区 大森海岸+ 130   36 17 19  
大森新地+ 150   44 3 41  
世田谷区 玉川 14 3 20 20    
渋谷区 渋谷(渋券)+ 300   180 20 160 松川二郎(1929)によると分離前の渋谷は芸妓410名、料理屋20、待合190
渋谷(道券)+ 56   17 9 8 道玄坂三業として分離
豊島区 大塚+ 260   83 22 61 最盛期の芸者700人(東京新聞2012.7.27)
北区 王子+ 35   7 1 6  
荒川区 尾久+ 114   48 20 28 幇間2名
戦後最盛期には芸妓330人、料亭30軒(東京新聞2012.7.22)

【大阪・京都の花街】
  花街名 芸妓数 貸席 備考
大阪 南地五街(芸娼妓混合)  3000 500 芸妓は美妓(娼妓を含む)。幇間24名。五街とは宗右衛門町、櫓町、坂町、難波新地、九郎右衛門町
曾根崎新地 900 118 この花街の起源は湯女(ゆな)といわれる
堀江(芸娼妓混合) 811 180 娼妓56名
松島遊郭(芸娼妓混合) 133   貸座敷259軒。娼妓3701人
飛田遊郭(芸娼妓混合) 15   貸座敷187。娼妓2300名
住吉(芸娼妓混合) 400 200 貸席(茶屋)だけでなく料理屋からでも自由に芸妓が呼べる点が旧市内と異なる
京都 祇園新地甲部 800 375 芸妓のうち50人が舞妓。芸妓本位の祇園新地甲部に対して、芸娼両本位の乙部(祇乙)は大衆路線遊び場
祇園新地乙部*(芸娼両) 254   (大正10年)娼妓313名
先斗町 253 174 芸妓のうち20人は舞妓、20人は義太夫
宮川町(芸娼両本位) 450 300 松川二郎1932によると娼妓400名
七条新地*(娼妓本位) 27   (大正10年)娼妓1,083名。京都最大、全国でも屈指の大遊郭。芸妓がいたのは昭和初年まで。
島原*(娼妓本位) 58   (大正10年)娼妓308名
上七軒* 86   (大正10年)娼妓7名
五番町*(娼妓本位) 105   (大正10年)娼妓547名。すぐ北に伝統の芸妓街上七軒があるため芸妓振るわず。水上勉「五番町夕霧楼」に描かれた。
中書島(芸娼両本位) 90   松川二郎1932によると娼妓360名。かつて河港遊所、その後京阪電鉄と市電のターミナルで繁昌。十六師団兵隊相手の安さが特徴。
(注)松川(1929)の新橋の項には昭和3年12月末調査とある。
(資料)松川二郎(1929)、松川二郎(1932)(+印の花街)、港区教育委員会(1966)、明田鉄男(1990)(*印の花街)ほか

(参考)幕末京都の芸妓数(1867年)
  芸 子 義太夫 舞 子  計 
祇園 539 105 173 817
先斗町 135 5 12 152
宮川町 94 15 18 127
二条新地 98     98
上七軒 70     70
島原 64     64
五番町 46     46
下の森 28   半線香
10
38
七条新地 38     38
(注)「四方の花」による (資料)明田鉄男(1990)

【コラム1】遊女が謡った「君が代」

 今様には「君が代」の歌が多い。国歌「君が代」は梁塵秘抄にはなく世阿弥の「養老」に出てくるものである。

 君が代は千代も住みなん稲荷山 祈る験(しるし)のあらんかぎりは
 君が代は限りもあらじ三笠山 峯に朝日のささんかぎりは
 君が代は松吹く風の音高く 難波のことも住吉の松

 「なぜこのように「君が代」が多いのかといえば、今様は傀儡女をはじめとして、白拍子女、遊女などの芸能者がお客の前で謡うものであるから、まず最初にお客、すなわち君の「君が世」の長久を言祝ぐのである。」(脇田2001)

 中世に流行した白拍子は舞や歌曲のリズム名だが、男装の女芸人「白拍子」固有の白拍子舞という芸能も指すようになった。白拍子舞は、伴奏の鼓の白拍子リズムで立ち姿を見せながらさらりと舞う前半と、セメというテンポに変えた鼓とかけあうように足拍子を踏みながら、その場にあうような和歌を歌い上げる後半からなる(沖本2016)。義経の恋人静御前が頼朝の前で舞った白拍子舞では、頼朝の意を受けた伴奏者祐経のいじわるで急にセメに転じられ、

静、「君が代の」と上げたりければ、人々これを聞きて、「情けなきかな祐経かな。今一折舞はせよかし」とぞ申しける(義経記)。

とある。「君が代の」は女性芸能者が宴の主を祝福するお定まりの挨拶の和歌の出だしとして、これだけ言えば分かる句なのであるが、この後、静は挨拶歌を取りやめ、頼朝への面当てで、例の有名な義経をしのぶ和歌「吉野山嶺の白雲踏みわけて入りにし人の跡ぞ恋しき」を歌う名場面が続くのである。

 こうした「君が代」が中世ではあらゆる主従関係に敷衍されて、ついに明治国家において天皇を指して「君」とされるに至り、国歌となった。遊女の歌を国歌にした国は少なかろうと思われる。コラム2でふれたように反幕という共通点から芸者・芸子と馴染んだ維新の志士が多かった(初代総理大臣の伊藤博文は妻にした)。政権を握った元革命家の心情として天皇への崇敬と遊女への親近感はひとつのものだったのだと私は勝手に考えている。

【コラム2】京都の芸妓と維新の志士

 京都の芸妓は幕末維新の志士との深い関係で知られる。技芸と美貌を有するだけでなく、教養ある客に接し、時局にも通じている芸妓は、京の"ちまた"で死線をくぐり抜けている反幕革命家にとって格好の相手であったろう(図録5660参照)。「軽輩侍たちは五番町や七条新地の娼妓を相手としたが、藩の運動資金を使える指導者たちは祇園・島原で芸者と遊んだ。そして多くの恋愛が発生した。」(明田鉄男1990)

 久坂玄瑞と島原芸者辰路、井上馨・品川弥二郎と祇園芸者君尾、桂小五郎の正妻となった三本木の歌舞芸者幾松、初代総理大臣伊藤博文の妻となった長門裏町の芸妓小梅、桂小五郎・伊藤博文と祇園のお加代(「顔が光って見える」くらいの超美人といわれる)、高杉晋作と祇園の小梨花、山県有朋と祇園の舞妓小菊、後藤象二郎と先斗町の芸者小仲(後に正夫人)、大久保利通と祇園一力養女お勇(のち第二正夫人)、西郷隆盛と祇園仲居お末・お虎(いずれも大女)、坂本龍馬と京都花街のひとつ七条新地の旅館で働いていたお龍、など枚挙にいとまがない。

 これらを列挙している明田(1990)によれば、こうした関係は長州勤王派とのつながりが特に強いが、「理由は簡単である。深謀遠慮の長州藩は、京都の市民感情を考慮して、思いきって軍資金を京都に注いだからである。急進公卿を金銭的に援助し、遊所で気前よく豪遊した。おかげで市民は、陰に陽に長州に親しみ、会津を疎外した。」明田は軍資金の出所を長州人民の血税としているが、むしろ、長州が交易や密貿易で得た利益金であろう。芸妓たちが勤王派に協力的だったのは、こうした金銭面のほかに、祇園等では幕府(京都所司代)から無許可売春の一斉取締を何回も蒙っていて反幕感情がもともと強かったからではないかと私は考えている。

 なお、佐幕派の方でも新撰組近藤勇は島原太夫美雪、同妹お孝、三本木芸者駒野、島原金太夫、祇園山絹養女お芳などの女を囲った。

(参考文献)

・相原恭子(2001)「京都 舞妓と芸妓の奥座敷 」文春新書
・明田鉄男(1990)「日本花街史」雄山閣
・岩下尚史(2006)「芸者論―神々に扮することを忘れた日本人」雄山閣
・沖本幸子(2016)「乱舞の中世―白拍子・乱拍子・猿楽」吉川弘文館
・加藤政洋(2009)「京の花街ものがたり」角川選書
・神崎宣武(1993)「盛り場の民俗史」岩波新書
・松川二郎(1929)「全国花街めぐり」誠文堂
・松川二郎(1932)「三都花街めぐり」誠文堂(三谷憲正編「コレクション・モダン都市文化 (22)花街と芸妓」ゆまに書房、2006年)
・滝川政次郎(1965)「遊女の歴史」至文堂
・滝川政次郎(1958)「池塘春草」青蛙房
・三田村鳶魚(1926)「江戸芸者の研究」(同「花柳風俗」中公文庫(1998年))
・成島柳北(1859)「柳橋新誌」(「新 日本古典文学大系100」岩波書店)
・みな子(2009)「華より花」主婦と生活社
・港区教育委員会(1966)「港区の文化財〈第2集〉海岸の歴史と風俗
・脇田晴子(2001)「女性芸能の源流 傀儡子・曲舞・白拍子」角川選書

(2011年2月3日収録、2月6日ベース資料を松川1932から松川1929に変更、5月9日京都花街の大正2年の加藤政洋(2009)出所データを大正10年の明田鉄男(1990)に変更、5月10日京都花街コメント増訂、コラム2追加、2012年7月23日尾久のコメント追加、7月27日大塚のコメント追加、2013年1月10日同志社を立命館に訂正、2014年4月30日東京花街分布図追加、2015年3月12日コラム2に伊藤博文妻芸妓小梅追加、3月29・30日大井芸者、下谷・湯島天神について追加、4月30日銀座のクラブママ伊藤由美引用、2016年9月20日コラム1補訂)


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