アジア各地における日本の評判は第2次世界大戦の際に日本軍が侵攻したかどうか、現地で日本軍がどのような行動をとったかで大きく左右されていると考えられる。私の経験上でも日本軍が占領したマレーシア・シンガポールとしなかったバングラデシュの間では日本人を見る目に微妙な陰影の有無という違いを感じた。アジアの最先進国日本への尊敬の気持ちには差がないが、日本軍が侵攻した地域では、だからといって不用意な日本人の偉そうな発言は思わぬ反感を招くのである。

 この図録では、アジア各地における日本軍の終戦時の兵数をグラフにした。

 現地の占領当局となった陸軍の兵数で見ると、中国本土が105万人と最も多く、満州の66万人と合わせると各地域合計296万人の58%と約6割を占めている。

 次ぎに多いのは蘭領インドシナ(おおむね現在のインドネシア)が23万人である。朝鮮半島も北部の9万人、南部20万人を合計すると29万人とこれを上回る。

 この他、多くの地域で、10万人内外の日本軍が進駐していたことが分かる。

 これら日本軍の軍人・軍属と民間人がそれぞれ約330万人、合わせて660万人が終戦後に日本へ引き揚げた(図録5226)。

アジア各地における終戦時日本軍の兵数
    兵数(人)  構成比(%) 
陸軍 海軍 陸軍 海軍
千島・樺太 8万8000人 3000人 3.0 0.8
朝鮮北部 9万4000人 8400人 3.2 2.2
朝鮮南部 20万0200人 3万3300人 6.8 8.7
台湾 12万8100人 6万2400人 4.3 16.3
満州 66万4000人 1500人 22.4 0.4
中国(含む香港) 105万5700人 6万9200人 35.6 18.1
ビルマ(含むインド) 7万0400人 1100人 2.4 0.3
タイ 10万6000人 1500人 3.6 0.4
仏領インドシナ 9万0400人 7800人 3.1 2.0
マレーシア・シンガポール 8万4800人 4万9900人 2.9 13.1
蘭領インドシナ 23万5800人 5万5500人 8.0 14.5
フィリピン 9万7300人 2万9900人 3.3 7.8
太平洋諸島 4万8600人 5万8300人 1.6 15.3
以上計 296万3300人 38万1800人 100.0 100.0
(注)旧厚生省援護局調べ。1945年8月15日時点の兵数
(資料)東京新聞2010.8.8大図解シリーズ「終戦の日を考える」

 次ぎに、日本との戦争終結に関係する記念日を掲げると下の表の通りである。現地における独立宣言や現地日本軍の降伏文書調印の日が多くなっている。

各国の日本との戦争関連記念日
記念日 記念日
名称
記念日の由来 終戦に至るまでの対日関係
3月27日 国軍記念日* ミャンマー 45年3月27日に抗日蜂起を開始 英国領だったが1942年6月〜45年5月日本軍が占領
4月9日 武勇(勇者、英雄)の日 フィリピン 42年4月9日、パターン半島が日本によって制圧されたことに由来、戦争犠牲者をしのぶ 米国領だったが1942年1月〜45年3月日本軍が占領
8月15日 VJデー** 英国 日本が降伏 連合国として対日参戦
8月15日 解放記念日 北朝鮮 日本の支配から解放 植民地支配(1910年8月〜45年8月26日(8月27日に行政権をソ連に委譲))
8月15日 光復節 韓国 45年8月15日植民地支配から解放、48年8月15日に韓国樹立の記念式典が開かれたことから、解放・独立を記念する日 植民地支配(1910年8月〜45年9月9日(朝鮮総督府が米軍との間で降伏文書調印))
8月16日 平和の日 タイ 45年8月16日に平和宣言、対米英宣戦布告の無効や戦時中に獲得した領土の返還を公表 日本との同盟国
8月17日 独立記念日 インドネシア 45年同日に独立宣言 オランダ領だったが1942年3月〜45年8月日本軍が占領
9月2日 独立記念日 ベトナム 45年の同日、ホー・チ・ミンが独立宣言 フランス領だったが1940年9月〜45年8月日本軍が占領
9月2日 VJデー 米国 日本と連合軍の間で降伏文書調印 連合国として対日参戦
9月2日 第2次大戦終結の日 ロシア 日本と連合国との間で降伏文書調印(2010年夏に記念日制定、ソ連時代は9月3日が対日戦勝記念日) 連合国として45年8月9日対日参戦、8月15日玉音放送後に千島・樺太に上陸占領
9月2日 (ヤルートのみ8月29日) 南洋群島(ヤルート、パラオ地区、ロタ、ヤップ) 各現地日本軍が降伏文書調印した日 ドイツ領だったが第1次世界大戦後日本領となる
9月3日 抗戦勝利記念日 中国 9月2日に日本と連合国との間で降伏文書が調印され、翌3日に勝利を祝う記念式典が開かれた 1937年から日中戦争、連合国の一員(中華民国)
10月25日 光復節 台湾 安藤利吉台湾総督と陳儀中華民国台湾省長官との間で降伏文書が調印された 植民地支配(1895年4月〜45年10月25日)
*抗日勝利を祝う「反乱記念日」の祝日だったが軍事政権下で意味合いが変わっていった
**VJはVictory over Japanの略
(資料)東京新聞2010.8.8大図解シリーズ「終戦の日を考える」


 終戦までの歩みをまとめた以下の年表に見られるように戦争終結に至るステップには、日本軍の中央及び現地での終戦合意・敗戦合意が重要となっている。45年9月2日のミズーリ号上の降伏文書調印には梅津参謀総長がサインしているのである。イラク戦争との相異は明確である。

終戦までの歩み
1945年 5月7日、8日 ドイツが降伏文書調印
7月26日 ポツダム宣言(日本の降伏を勧告)
8月6日 広島に原爆投下
8月9日 ソ連が対日参戦、満州侵攻
 〃 長崎に原爆投下
8月10日 御前会議で第1回「御聖断」
8月14日 御前会議で第2回「御聖断」、降伏確定。米へ通告
8月15日 玉音放送(正午から約4分半)
8月17日 ソ連軍が南樺太のエストル占領
8月19日 関東軍と極東ソ連軍が停戦合意
8月22日 南樺太で日ソ両軍の停戦協定成立
9月2日 日本が連合国への降伏文書調印(東京湾上米軍艦「ミズーリ」号で連合国各国代表が参加し調印式。日本側は重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が署名)
 〃 パラオ地区の日本軍と米軍が停戦協定調印
9月3日 フィリピン日本軍が降伏文書調印
9月5日 ソ連軍が千島全島占領
9月6日 ビルマ日本軍が降伏文書調印
9月7日 沖縄の日本軍が降伏文書調印
9月9日 朝鮮総督府と米軍の間で降伏文書調印
 〃 在中日本軍が降伏
9月12日 シンガポールの日本軍が降伏文書調印
10月25日 台湾総督府が降伏文書調印
1951年 9月8日 サンフランシスコ講和条約の調印
1952年 4月28日 サンフランシスコ講和条約発効
(注)連合国は米国、英国、オランダ、中国、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス。同盟国はタイ、ドイツ、イタリア
(資料)東京新聞2010.8.8大図解シリーズ「終戦の日を考える」

 2003年のイラク戦争では米国を中心とする連合軍は、戦争の終結について、イラクと講和したわけでも、停戦協定を結んだわけでもなく、いわばアメリカがクーデターに手を貸して旧体制を転覆、一方的に終結を宣言したに過ぎない。このため、イラク軍やイラク政府が地下に潜ってしまった。「米英軍の占領政策はこのような事態を全く予測しておらず(ないしは非常に軽視したものと考えられ)、これは明らかに情報分析の初歩的敗北であり、「戦闘終結宣言」後に大量の死者を出す結果を招いた。」(ウィキペディア)

 私は何故イラク軍に敗北を認めさせると云う最重要なステップを取らずに慌てて軍を解体してしまったのか不思議で仕様がなかった。戦争というのは勝てばよいのではなく、負けたと相手に認めさせなければ意味がない。常識的に考えてその後の占領政策を考えるなら降伏合意という戦争終結の不可欠のステップを取らないなんて何とブッシュ大統領というのは無能なんだろうと当時考えた。ブッシュ大統領には、日本の終戦時に、日本軍の降伏文書調印を行わなかったら、おそらく日本軍の残党がアジア各地や日本の山野に忍んで、グアム島で日本軍の無条件降伏の発令を知らず28年間も投降しなかった横井庄一さんのように徹底抗戦を長く繰り広げたことは自明なことだと云う認識がなかったに違いない。少なくとも敵国国民を自分らと同じ人間と考えていなかったという決定的な認識不足によるものだろう。日本が世界平和に寄与し得るなら、少し前までの戦争敗北国、経済援助被援助国の経験をビビッドに思い出せるからだろう。誤解を恐れずにいえば、イラク戦争の戦争指導には日本人が参加しているべきだったのである。

(2010年8月9日収録)


[ 本図録と関連するコンテンツ ]



関連図録リスト
分野 地域(海外)
テーマ  
図録書籍 図書案内




既刊第1弾


既刊第2弾
アマゾン検索

 
(ここからの購入による紹介料を通じたサイト支援にご協力下さい)