中国とインドの超長期の人口推移を追ってみよう。なお、ここではインドは旧インド、すなわちパキスタン、バングラデシュを含む領域を指している。

 古代にはインドは中国の2倍ぐらい人口がいたという数字もある。ところが1600年には中国がインドを人口規模で上回った。

 その後停滞インドに対して中国は順調に人口を伸ばしたが、インドも近代化の流れの中で19世紀後半には人口が急増する。1950年の時点では中国は5.4億人とインドの4.5億人を1億人上回っていた。

 人口抑制政策を取った中国に対してインドはより高い人口増加率を示し、1997年に再逆転した。2015年の時点では中国は13.8億人に対してインドは16.6億人、現インドのみでは13.1億人となった。

 国連による将来人口推計については中国は2030年にはピークの14.2億人に達するが、インドはその年に19.6億人となり、さらに人口は伸び続け、2070年に23.0億人のピークをしるすと予測されている。そして2100年には中国は現在より少ない10.0億人にまで落ち込むのに対して、インドは21.9億人と2倍以上を維持すると見られている。

 なお、1500年以前の人口の推移が図のようになだらかだったわけではない。例えば、下には中国の唐代中期の人口推移を掲げた。


 唐代中期、玄宗の在位45年は、晩年の1〜2年を除くと中国史上まれにみる平和な時代であり、以下のような要因で経済が発展し、人口も大きく伸びた(宮崎市定「大唐帝国」全集8による)。

サラセン帝国から逃れてきたササン朝ペルシャの貴族や富豪が中国人に同化、商業資本家として活躍
サラセン帝国との貿易拡大
大運河交通路による経済発展、都市繁栄
府兵制から傭兵制への切り替えによる農民帰農で生産力向上
農作の連続

 優れた統治を行っていた玄宗は晩年には遊惰安逸に流れ、傾国の美女として名を残すことになる楊貴妃におぼれるようになった。こうした宮廷への阿諛、賄賂で三鎮の節度使となり強大な兵馬の権を手にした安禄山(胡人、すなわち外国人だったという)は唐の簒奪をめざし755年に反乱を起こした。「安禄山の部下は蕃将、蕃兵であり、西方イラン系や北方遊牧民族出身の異国人が多く、中国人にたいしては情も容赦もない。四〇年太平の夢はやぶれて、中原一帯は羅刹のような軍兵が荒れ狂う修羅場と化した」(p.292)

 乱は安禄山の部下だった史思明に引き継がれ、763年まで続いた(従って安史の乱と呼ばれる)。両人とも相続権をめぐり長子である、それぞれ、安慶緒、史朝義に殺された。「外にむかっては強い反乱指導者も、内側には致命な弱点を有していたのは不思議である」(p.293)。

 図の通り、当時の公式統計によれば、人口は3,600万人減少し、中国の人口規模は約三分の一の規模にまで縮小したとされる。とんでもなく大きな災禍が襲ったわけであるが、世界の人口規模対比では、モンゴル帝国の征服を上回る史上最大の犠牲者数という見方もあるぐらいである(図録5228b)。

 しかし、764年の戸数、人口は実際よりかなり少ないため、この犠牲者数の見積もりは過大であるようだ。「そんなに多数の人民が死亡したとも思われない。これは都市が破壊されて人民は農村に逃れ、農村には調査の手が十分に及ばなかったためと思われる。さらに他の要因は、史朝義は殺されたが、その旧部下の賊将らはおおむね帰順するとともに地方の軍職に任ぜられ、しかもいぜんとして半独立の態勢を持し、境内の戸口調査の報告などを行わなかったと思われるのである」(p.294)。

(2007年7月24日収録、2010年7月21日歴史人口データ変更、国連推計更新、2015年10月30日国連推計更新、2016年9月25日安史の乱前後の人口推移)


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