米国人にとって宗教、中でもキリスト教は特別な意義を有している。そこで米国の調査機関であるピューリサーチセンターは全米を対象とした大規模な宗教調査を行っている。

 この調査結果から、米国人が聖書を読む頻度を図にした。

 2014年の結果によれば、米国人の35%は週1回以上聖書を読んでいる。月に1〜2回が10%、年に数回が8%であり、これらを合計すると53%が聖書を読んでいる。逆に、読まないとしているのは46%と半分弱である。

 2007年にも同じ内容の調査が行われたが、2014年の結果と比べると、ほとんど変化がない。

 2014年の結果を政治傾向別に見ると、保守層は49%が毎週1回以上聖書を読んでおり、信仰心が高くなっている。他方、リベラル層は22%しか週1回以上聖書を読む者はおらず、読まないが60%に達している。保守とリベラルではキリスト教への傾斜度がかなり異なっているといえる。

 地域的には、週1回以上聖書を読む割合が最も高いのは南部の44%であり、中西部・西部が32%とこれに次いでおり、北東部は26%と低くなっている。

 政治傾向と地域別がほぼパラレルになっていると理解できよう。

 聖書を読む頻度については大規模な調査だけに州別のデータも得られる。聖書を週1回以上読む比率の上位3位はミシシッピー州(59%)、テネシー州(56%)、アラバマ州(55%)であり、いずれも南部の州である。下位3位はマサチューセッツ州(15%)、ニューハンプシャー州(18%)、バーモント州(同)であり、いずれも北東部の州である。

 ボストン市を中心とするマサチューセッツ州は、1620年、聖書に基づく生活をするため英国国教会から逃れてきたメイフラワー号の乗船客ピルグリムによって、プリマス植民地が設立された地であり、米国キリスト教の原点のような場所である。ここで、毎週1回以上聖書を読む比率が国内で最も低いというのは、まことに皮肉なデータを言わざるを得ない。

 聖書を週1回以上読む比率と殺人発生率との相関図を描いてみると両者はかなり相関している。米国では、皮肉なことに、宗教心に厚い地域ほど暴力的であるわけである。

 何故、そうなのかについては、歴史的な経緯に要因を探ることができよう。結論からいうと、キリスト教がそもそも暴力を惹起しやすい宗教だからキリスト教地域で暴力的な環境が生み出されているというのではなく、暴力が蔓延している地域ほどそれを少しでも矯正するためにキリスト教が必要だったのである。

 米国の西部劇映画では、殺し合いが日常茶飯事となっている環境の中で荒くれ者が信仰に突如目覚めるというテーマが繰り返し描かれる。

 ニューメキシコ州で起ったリンカーン郡戦争を題材にした西部劇「チザム」(1970年、アンドリュー・V・マクラグレン監督)では、凄腕ガンマンであるビリー・ザ・キッドは信仰心のあつい有徳な地主の影響により荒野でひとりで聖書を読みふけり、無頼生活から脱しようとしていた。ところが、この地主が敵側に無残に殺害されたためビリーは復讐に立ち上がり、ついに地域ぐるみの血で血を洗う抗争に至るのである。

 テネシー州が舞台の「ヨーク軍曹」(1941年、ハワード・ホークス監督)では、周りから厄介者扱いされていた田舎の暴れん坊の主人公が牧師の影響で突如雷に打たれたようにキリスト教信仰に目覚める。第一次世界大戦に従軍すると宗教と戦争との矛盾に悩むが信念の強さが3つの最高勲章に輝く活躍につながるのである。

 最近の映画でも、ミズーリ州が舞台の「スリー・ビルボード」(2017年、マーティン・マクドナー監督)において、キレると暴力を抑えられない下っ端警官は、すい臓がんを苦に自殺した尊敬してやまなかった署長からの遺書となる手紙で突如改心し、娘を焼き殺されたためその署長の怠慢を3枚の広告板(スリー・ビルボード)で非難した女主人公への攻撃者からむしろ同志に転じるのである。署長からの手紙が聖書のような役割を果たしているといってよい。

 人類史的な暴力の低減過程を研究したスティーブン・ピンカーは「暴力の人類史」(青土社、原著2011年)の中で多くの者が何故だろうと思う米国の高い殺人発生率レベルの理由について、欧州や日本のように刀狩(暴力の国家独占)の洗礼を受けていないためとした(図録8809)。

 そして、米国の西部や南部といった地域では、脱暴力へ向けた文明化のプロセスを欧州から受け入れにくかったために、いまでも殺人発生率がなお高くなっていると指摘している。そして、キリスト教信仰についてもこうした歴史的経緯と深く結びついているとしている。

「アメリカのレッドステート[共和党を支持する傾向の強い州]で宗教や「家族の価値」が神聖視されているのも、もとはといえばカウボーイの町や鉱山労働者の飯場でいさかいを起こす荒くれ者どもをなだめるための戦術だったからである」(同上、p.205)。

 ジョージア州生れの女流作家フラナリー・オコナーの世界はこうした地域の人間像を色濃く反映している。彼女の代表作「善人はなかなかいない」に登場する「はみ出しもの」と呼ばれる脱獄犯は主人公一家皆殺しのさなかにこういうセリフを吐く。

「死人をよみがえらせたのはイエス・キリストだけだよな。そんなことはしないほうがよかった。イエスはあらゆるものの釣り合いを取っぱらったんだ。イエスが言ったとおりのことをやったとすれば、おれたちはすべてを投げ出してイエスに従うほかない。もし、イエスが言ったとおりのことをやらなかったとすれば、おれたちとしては、残されたわずかな時間を、せいぜいしたいほうだいやって楽しむしかないだろう−殺しとか、放火とか、その他もろもろの悪事を。悪事だけが楽しみさ」(「フラナリー・オコナー全短編上」p.33)。

 せっかく「道徳律」が柔らかいなめし皮製の袋でさまざまな邪悪なこころを閉じ込めているのに、よかれと思って「宗教」をその袋に入れると切っ先鋭い刃が袋を突き破ってしまうことがあるという印象だ。

(2018年3月6日収録、3月7日補訂、4月9日オコナー引用)


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