天皇と貴族の世の中(奈良・平安時代)
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1 貴族はどのようにして生まれたか?
2 木の札(ふだ)に書かれた文書
3 奈良時代のトラさんもフーテンだった?
4 ひらがなの歴史
5 藤原道長にも悩みはあった!?
6 紫式部って本名なの?
7 貴族の食事比べ 奈良VS平安
8 武士はどこから生まれたの?
9 名前に残る都の武士
10 平清盛は武士?貴族?
11 武士と馬の関係
12 源平の戦いはルール違反?
※イラストはすべて関口たか広先生の作品です
1 貴族はどのようにして生まれたか?
☆なるほどクイズ
(1)奈良時代、朝廷につかえた役人たちは、何時ごろに出勤した?
@6時半 A9時 B12時 答は?(クリック)
(2)朝廷にはさまざまな役職があり、また30あまりの位(くらい)に分かれていました。一番上位の人(太政大臣、だじょうだいじん)
の1年間の収入は、今のお金にすると?
@1000万円 A4000万円 B1億円 C4億円 答は?
(3)ある人が20歳で役人になって、最も順調に位をあげていったとして、60歳には上から何番目の位になったでしょう?
30番中 @23番目 A15番目 B10番 C5番 答は?
☆せつめい
生まれながらにして身分の高い人を貴族と言います。代表的な人とし
て藤原氏の名前を知っていると思います。では、この貴族はどのようにし
て生まれたのでしょうか?
701年に大宝律令(たいほうりつりょう)が制定され、日本は法律や役
人のしくみが整った国家になりました。能力があれば役人はどんどん出
世できるように一応なってはいましたが、実際はだいぶ違いました。
それまで天皇家に従ってきた豪族たちが上位になりました。彼らが朝
廷から与えられた広大な土地は、実はもともと彼らが持っていたものな
のです。
また、その子どもたちが役人になる場合は、普通の人よりはるかに上
位からスタートできたのです。
これでは普通の人がいくらがんばっても、追いつくはずがありません
ね。下位の役人は給料も少なかったのですが、鉄製のくわを与えられ
(一般の農民のくわは木製)、これで支給された田んぼを耕作できたの
は強みでした。
このようにして、いくつかの決まった家だけが、朝廷の中で高い地位
や役職をほとんど独占し、貴族と呼ばれるようになっていったのです。
2 木の札(ふだ)に書かれた文書
☆なるほどクイズ
(1)木簡(もっかん、細長い木の板)に文字を書く時、便利な点は?
※紙ではなく、木なので… 答は?
(2)木簡の端(はし)に切り込みはあるのは?
@持ちやすいように Aひもで結ぶため B流行したデザイン 答は?
(3)木簡からわかった、ある貴族のぜいたくな食べ物とは?
@ゼリー A豚肉 B牛乳の加工品 答は?
☆せつめい
奈良時代やその前後の時期の歴史を調べる上で、とても貴重な
史料に「木簡」と呼ばれる文字を記した木の札があります。
紙は7世紀初めには中国から朝鮮を経て日本にもたらされてい
ましたが、まだ大変貴重なものでした。そのため、文書の下書きや
荷札などは、木の板がさかんに用いられていたのです(今でも手
紙を意味する言葉として使われている「書簡の「簡」の字は、たけか
んむりです)。
平城京(へいじょうきょう)や長屋王(ながやおう)という貴族の
屋敷一帯からは、あわせて10万点以上の木簡が見つかっています
し、全国各地の役所あとなどからも出土ししています。これらを調
べてみると、例えば長屋王の屋敷には、全国に広がる領地からい
ろいろな食べ物(塩漬けのアジやアユ、カツオ、タイ、イノシシ、たく
さんの種類の野菜など)が送られてきたことがわかりました。また
王は、当時大変貴重だった天然の氷を貯えておく「氷室」をもって
いました。
こうした事実は、長屋王がそれまで知られていた以上に高い地
位にあったことを示しているのです。
3 奈良時代のトラさんもフーテンだった?
☆なるほどクイズ
(1)721年、今の東京都葛飾(かつしか)区柴又に、孔王部刀良(あなほべのとら)という人の一家が住んでいました。奈良時代にも
柴又にトラさんがいたんですね!ところで、このトラさん一家(9人)の持つ田んぼから取れた米の量は1人あたりどれくらいだった?
1日に必要な量の @3倍 A1.5倍 Bちょうど必要な量 C半分足らず 答は?
(2)今度は726年、今の京都府のある村に住んでいた人々の税金台帳を見てみましょう。家族の人数、名前、性別のほか、ほくろの
位置まで記されています。これは何のため?
※ヒント:ほくろの位置は動かせない、そしてこれが税金をとるための帳面だから… 答は?
(3)同じ台帳には、ある家で9人も村から逃げ出していて、しかもどこへ逃げたまで書かれているのです。このことから推測できることは?
※ヒント:普通、どこへ逃げたかなんてわからないはずです。 答は?
☆せつめい
律令のしくみが整ったこの時代、農民たちは政府から田んぼを貸し
与えられて暮らしていました。しかし、取れたお米の中から次の年のた
めの種もみをとっておくほか、何種類もの税を出し、さらに給料なしで
労働しなければならなかったので、暮らし向きは決して楽ではなかっ
たはずです。
ただし、です。皆が本当にバタバタと死んでいくほどの厳しさだった
のでしょうか?もしそうだったら、国そのものがもたないはずです。
皆さんは、農民が村から逃げ出すと聞くと、あてもなくさまよい、ど
こかでのたれ死んだのでは?と思うかもしれません。でも、逃げた場所
もきちんと記録されていたのですから、そこで暮らすことができた場合
も多かったと考えられます。食べ物だって、何も米ばかりではない(縄
文時代の暮らしの話を思い出してください)し、案外逃げた先で米作り
をしていたかもしれませんからね。
そう考えると、農民たちは苦しさに耐(た)えかねて村から逃げたと
いうのではなく、新たな農地を求めて移り住んだ場合もあったのかも
しれませんね。
4 ひらがなの歴史
☆なるほどクイズ
(1)「奈苦古良乎」これは奈良時代の和歌の一部です。何と読む?
※最後の字は「を」と読みます。 答は?
(2)「あ」「い」「う」などは、平安時代から「ひらがな」と呼ばれていた。これホント? 答は?
(3)「ひ」というひらがなは、何という漢字をくずしてつくった?
@比 A飛 B日 答は?
☆せつめい
皆さんが小学校へ入った時、最初に習ったひらがなは、平安
時代(9世紀末か10世紀初めごろ)にできました。それまでは、万
葉仮名(まんようがな)といって、漢字を(その字のもつ意味とは
関係なく、読み方から)かなのように使っていましたが、それらを
くずして日本独特の文字をつくったのです。
同じころ、漢字の一部をとってそのまま用いたカタカナもできま
したが、これは主に中国の漢字ばかりの文章を読む際に使うため
のものでした。
ひらがなは「女手」(おんなで)とも呼ばれるように、漢字ばかりの
文を読む機会がなかった女性たちに、自分たちの思いや考えを表
現する手段として使われました。
その結果、多くの素晴らしい文学作品が生まれたのです。もちろ
ん男性も使うようになり、主に和歌や個人的な手紙を書くのに用い
られました。
はじめは1つの音に対し1つの文字でしたが、やがて書道が発達
し、いろいろな文字をくずして使うようになったため、例えば「ひ」な
どは3種類のかながあります。これが1つに統一されたのは、学校制
度が整った明治時代になってからでした。
5 藤原道長にも悩みはあった!?
☆なるほどクイズ
(1)藤原道長が、貴族としては最高の摂政(せっしょう)という地位にあった期間は?
@1年 A5年 B10年 C20年 答は?
(2)「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ道長にも、悩みはあったようです。それは?
@お金がもっと欲しい A夫婦げんか B病気 C跡継(あとつ)ぎのできが悪い 答は?
☆せつめい
藤原道長(966〜1027)は、貴族が世の中の主役だった時代で最
も力のあった人物です。30年あまりも最高権力を握り続け、経済的
にも大変豊かで、娘を3人も天皇家に嫁(とつ)がせました。摂政とい
う高い地位にもあまりこだわりがなく、むしろ上級貴族たちの会議(今
で言う内閣の閣議)の議長をずっとつとめたのです。
出世の望みがほとんどない中級役人たちは、道長に贈り物をして、
何とかより上の地位になれるようお願いしました。紫式部(むらさきし
きぶ)や和泉(いずみ)式部といった才女(さいじょ)たちが、道長の娘
の家庭教師となったのは、彼女たちの父親や夫たちが、より道長に気
に入られようとしたためでもあったのです。
こんな、この世にもう望むものもないような道長にも、悩みがありま
した。それは病気です。彼の日記を見ると、特に40歳代以降、しばし
ば「胸の病(やまい)」とか「少し先の人の顔が見えない」などという記
事があり、現代のある医者は、道長は糖尿(とうにょう)病だったので
はないか、と推測しています。
これは道長が個人的に病弱だったのか、それともほかに何か理由
があるのか、別の回で考えていくことにしましょう。
6 紫式部って本名なの?
☆なるほどクイズ
(1)「源氏物語」の作者、紫式部とは?
@本名 A一部が本名 Bニックネーム 答は?
(2)紫式部は「枕草子」(まくらのそうし)の作者、清少納言(せいしょうなごん)のことを…?
@尊敬していた Aひどくけなしていた B何も書き残していない 答は?
(3)紫式部と藤原道長の関係は?
@恋人どうし A少なくとも知り合いではあった B全く関係なし 答は?
☆せつめい
世界で最も古い長編小説「源氏物語」を書いた紫式部とは、彼女の
死後に呼ばれるようになった名前です。実は、本当の名前はよくわか
っていません。これは何も彼女に限ったことではなく、一般にこのころ
の女性の名前は、ほとんど記録に残りませんでした。
それだけ女性の地位は低かったのです。ちなみに紫式部のライバ
ル、清少納言の「清」は、彼女の一族の名前「清原」の一部、「少納言」
は本来男性の役人の職名で、宮中(きゅうちゅう)に仕えた下級女
官(かきゅうにょかん)であったことを意味しています。
奈良・平安時代には、中くらいの貴族の娘が働く後宮(こうきゅう)
という、江戸時代における大奥のようなところがありました。しかし、
それは男性によって成り立っている朝廷のしくみに比べると、はるかに
規模の小さなものでした。
ただ、そのような中で、紫式部や清少納言のような、高い知性と教
養をもった女性たちが生まれ、後の時代には世界的にも有名になっ
た文学作品をつくりあげたことは、文化面での女性のはたした役割
の大きさを示している、といってよいでしょう。
7 貴族の食事比べ 奈良VS平安
☆なるほどクイズ
(1)奈良時代の貴族が食べていて、平安貴族が食べなくなったものとは?
@魚 A乳製品 Bお米 答は?
(2)平安貴族の主なおかずに「なます」があります。これはいったいどんなもの?
@野菜のつけ物 A海藻(かいそう) B刺身(さしみ)のようなもの 答は?
(3)藤原道長ら平安後期の貴族は、一般的に獣(けもの)の肉を食べることを避(さ)けていました。その理由は?
@仏教の教え A天皇の命令 B料理できなかったから 答は?
☆せつめい
貴族が力を持ち始めた奈良時代は、牛乳を加工した食品などを食
べ、質のよいたんぱく質などを十分にとっていました。ところが平安時
代になると、栄養より見栄(みば)えのよさが優先されるようになり、貴
族の食事は形式化していきました。
乾燥(かんそう)させた鳥や魚の肉にお湯をかけたりして、消化に悪
い食べ方をしていたようですし、新鮮な野菜などはほとんどとりません
でした。おまけに運動不足で、深夜までお酒を飲む日々が続く上級貴
族たちは、体力が低下し、病気への抵抗力も弱かったものと思われま
す。以前紹介した道長ならずとも、病気になって不思議はない話です
ね。
一方、このころ地方で力を持ってきた武士たちは、仏教の教えにもと
らわれずに魚や鳥、獣の肉などを食べ、さらに海藻や新鮮な野菜など
もとりました。運動はもちろんバッチリでしたから、健康で強いからだを
つくりあげていきました。
こうしてみると、食の面からも、貴族から武士の世の中になっていくこ
とは、当然のことだったのかもしれませんね。
8 武士はどこから生まれたの?
☆なるほどクイズ
(1)武士は「侍」(さむらい)とも呼ばれます。これはもともとどういう意味?
@強くて悪い人 A身分の高い人のガードマン B土地を持っている人 Cお金を持っている人 答は?
(2)次のうち正しい説は?(2つあります)
@武士の名字(みょうじ)は源氏か平氏のどちらかしかない。
A武士で最も地位が高いのは、はじめは征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)ではなかった。
B武士は地方から生まれた。
C貴族の中でも、すぐれた武芸を持つ人がいた。 答は?
☆せつめい
武士が地方から生まれたというのは本当でしょうか?実は、都であった
京都にも、天皇や貴族を武力で守る役人たちがたくさんいました。そし
て、いわゆる貴族と呼ばれる人たちの中にも、武芸に秀(ひい)でた人が
何人もいたのです。武士が使うよろいや弓をつくる技術は、京都で発達
しました。こうしたことから、武士は地方ではなく都で生まれたと説く人
も出てきました。
武家の有名な役職である征夷大将軍は、はじめは朝廷が東北地方の
人々を討つために臨時に設けたものでした。常に置かれていた近衛(こ
のえ)大将(都を守る武士のトップ)や鎮守府(ちんじゅふ)将軍(東北
地方に置かれた)などの方が、むしろ武家のリーダーにふさわしい役職
だったのです。
このうち、平安時代後期に、代々鎮守府将軍となったのは、藤原氏で
した。藤原氏と聞くと、皆さんは道長に代表される都の貴族をイメージ
するかもしれませんね。でも藤原氏は家がたくさん分かれたので、都で
の出世が望めない家がほとんどでした。950年ごろに活躍した藤原秀
郷(ひでさと)という人の家が、強大な武力を持つ豪族となって栄えま
した。征夷大将軍は、幕府を開いた源頼朝が任ぜられたために、その後
武家のリーダーと認められるようになっていきます。
9 名前に残る都の武士
☆なるほどクイズ
(1)11世紀初め、武士として朝廷に仕えていた下毛野公時(しもつけのきんとき)がモデルとなったお話は?
@浦島太郎 A金太郎 B桃太郎 答は?
(2)朝廷で行われた、邪気(じゃき)を払うための行事が人々にひろまったものとは?
@端午(たんご)の節句(せっく) Aお月見 Bお彼岸(ひがん) 答は?
(3)やはり天皇の邪気を払うために行われたスポーツとは?
※ヒント:今は外国人が最高の地位にあります。 答は?
☆せつめい
江戸時代の農民には「〜衛門」(えもん)とか「〜兵衛」(べえ)とい
う名前の人がたくさんいました。今でも歌舞伎(かぶき)役者の一部
にそういう名前の人がいますし、人気漫画の主人公「ドラえもん」も
そうですね。
実はこれらは、奈良・平安時代に天皇を警護(けいご)する役人た
ちが勤めていた役所の名前の一部なのです。武士は地方だけでは
なく、都にもたくさんいました。もちろん同じ人が地方に領地をもち、
都では役人として働いたケースもあったのです。
こうした都の警備を担当する人々は、地方からも集められましたか
ら、そうした人たちが役目を終えていなかに帰ると、その役所の名前
を名乗ったのではないかと考えられています。
やがて平家や源氏が力を伸ばし、こうした役所は形ばかりのもの
となりますが、それでも例えば源頼朝などは、征夷大将軍になる前
に、こうした役所の一つ、右近衛府(うこのえふ)の長官である大将
に任ぜられています。
武力は邪気を払うものとして重んじられた面があるので、江戸時
代の農民たちも、それにあやかろうとして「〜衛門」「〜兵衛」などと
名乗ったのかもしれませんね。
10 平清盛は武士?貴族?
☆なるほどクイズ
(1)平清盛に関する話として伝えられているものは?
@とてもケチだった Aとても家来思いだった B細かいことにこだわらなかった 答は?
(2)清盛は中国宋(そう)王朝との貿易を進めました。彼が日本で初めて輸入したものは?
@お茶 A珍しいお菓子 B百科事典 答は?
(3)平氏一門の栄華(えいが)への批判に対し、清盛は300人の○○を京の町に放って情報を集めたそうです。この○○とは?
@女性 A子ども B老人 答は?
☆せつめい
平清盛は武士か貴族か?こう聞かれたら、皆さんはすぐ「清盛は平
氏なんだから武士に決まってる!」と答えるかもしれませんね。でも、
そう簡単に言い切れるでしょうか?
そもそも源氏も平氏も天皇家から分かれた家で、朝廷や貴族に従
い、これに敵対する勢力と戦って地位を上げていきました。それでも
中くらいの貴族になるのがやっとでしたが、清盛だけはものすごいス
ピードで出世し、ついには貴族のトップ、太政大臣(だじょうだいじん)
にまでなるのです。
そのため多くの学者は、清盛が実は白河法皇の子どもだったので
はと推測しています。それに一門の多くも上級貴族となり、娘を天皇
と結婚させ、さらにできた孫を天皇とするなど、貴族と呼んでもおか
しくないふるまいをしていたのです。
もちろん、地方支配のかなめである国司(今の知事に近い役職)の
大半を一門が占めたり、後の鎌倉幕府が設置した地頭に近い役職を
地方に置いたりして、武士としての特徴も持ってはいます。ただ、朝廷
との深い関係を利用して勢力を拡大させた点に、源氏との大きな違
いがありました。
11 武士と馬の関係
☆なるほどクイズ
(1)源義経(みなもとのよしつね)が、急な坂をおりて平家軍を攻めた時、畠山重忠(はたけやましげただ)という武士はどうした
でしょう?
@馬をおいて自分だけ走りおりた。 A馬を2頭連れ、途中で乗りかえた。 B自分が馬を背負っておりた。 答は?
(2)源義経のころは馬の大きさは?
@今の馬より小さい A今の馬と同じくらい B今の馬より大きい 答は?
(3)よろいをつけた武士を乗せた馬の走る速さは?
@時速60キロ A時速30キロ B時速10キロ 答は?
☆せつめい
テレビや映画の合戦シーンで、よろい姿の武士たちを乗せた多くの
馬が全速力で走っているところを見た人がいると思います。しかし残
念ながら本当は、あれほどかっこいい姿ではなかったのです。
まず馬が、現在のサラブレッドのように大きくてスマートなものでは
なく、ちょうど今のポニーくらいの大きさで、脚(あし)も太いものでし
た。ですからスピードも遅く、それも長い時間は走ることができません
でした。
しかし、そうは言っても武士にとって馬は、今の自動車以上になくて
はならないものであったことは、まちがいありません。源頼朝に従った
関東の武士たちの中には、「別当」(べっとう)という馬の牧場を管理
する役を意味する肩書きをもつ人たちがいました。彼らにとって名馬
を手に入れることは、戦場での生死がかかった、とても大切なことだ
ったのです。
このため、名馬の産地である奥州(東北地方)の馬は、高い値段で
取引されました。なかには高価で買えず、専門の業者から馬を借り
たりする武士までいたほどです。
12 源平の戦いはルール違反?
☆なるほどクイズ
(1)10世紀前半、武士が成立したころの正式な戦い方とは?
@馬上で刀を振るう A馬上で弓をひく B徒歩で槍(やり)を使う 答は?
(2)那須与一(なすのよいち)が屋島の戦いで、扇(おうぎ)の的を射た後にしたこととは?
@自ら舞った A自分の先祖について大声で話した Bほめたたえた平家方の武士を弓で倒した 答は?
(3)源平の戦いより約30年前、都での戦いで平清盛が率いた兵の数は?
@300 A3000 B30000 答は?
☆せつめい
皆さんの中には、源平の戦いで、源義経がさまざな奇襲(きしゅう)戦
法を使ってあざやかに勝利したことを知っている人も多いことでしょう。
でも実はこうしたことは、何も義経軍に限ったことではなかったのです。
武士が成立した10〜11世紀には、戦いにもスポーツと共通するような
ルールがありました。たとえば、馬に乗った武士どうしが弓を射て戦う場
合は、必ず相手の武士だけをねらい、決して馬を倒してはいけない、など
というものです。
ところが、それが12世紀終わりごろには守られなくなります。このころ
の様子を描いた絵を見ると、馬を射たり、自分の馬をわざとぶつけて
相手を落馬させたりしているのがわかります。
なぜこうした変化が起きたのでしょうか?それは、このころ日本各地で
土地の権利などをめぐる争いがたくさん起こり、そのため武芸をもたな
い人たちも戦いに参加したためです(だから兵数も1万をこえるようなこ
ともありました)。
つまり源平の戦いは、そうした全国的な争いの一部にすぎなかった、
とも言えるのです。
☆答
1(1)@の6時半。とても早いですね。決められた勤務時間はお昼ごろまででしたが、実際には仕事が終わらず、残業もかなりあった
ようです。
2(1)削(けず)って、また使えることです。この削りくずもたくさん見つかっていて、大変貴重です。
3(1)Cの半分足らず。おかずが少ないこの時代、1人が1日に5合(ごう)くらいは必要なのに、約2合しか取れなかったようです。
4(1)「なくこらを(泣く子らを)」と読みます。
5(1)@の1年。わずか1年2ヵ月でやめています。摂政は、天皇の側近くにつかえることができましたが、国の重要政策を決める上級貴族たち
の会議には出席できなかったのです。
6(1)Bのニックネーム。紫は「源氏物語」の主人公からとったもので、式部は彼女の父親の役職名の一部です。
7(1)Aの乳製品。「酥」(そ)や「酪」(らく)、「醍醐」(だいご)などが知られていて、あまりのおいしさから「醍醐味」(だいごみ)という言葉が
生まれたほどです。
8(1)Aの身分の高い人のガードマン。つまり、武士は貴族のいる都からも生まれたことがわかるのです。
9(1)Aの金太郎。源頼光(みなもとのよりみつ)という、頼朝より200年も前の武士に従っていた人とされています。
10(1)Aのとても家来思いだった。対立する勢力のどちらとも上手につきあえたのは、案外、彼のやさしい気配りのせいだったかも!?
11(1)Bの自分が背負っておりた。え?とても無理? まぁ、次のクイズを解いてから考えてください。
12(1)Aの馬上で弓をひく。まず馬上で弓をひきあい、矢がなくなったら、おりて組んで戦いました。
1(2)Cの4億円。これに対し、一番下の位の人は200万円くらいでした。すごい差ですね。
2(2)Aのひもで結ぶため。穴があいているものもあり、それらはひもを通して使っていたようです。
3(2)逃げ出しても本人とわかるように(手配写真がわり?)。
4(2)ウソ。はじめは単に「かな」などと読んでいました。これに対し、漢字のことは「真名(まな)」と言いました。
5(2)Bの病気。ほかの3つが絶対なかったという証拠はありませんけどね。道長の日記に書き間違いが多いのは、彼の豪快
(ごうかい)な性格によるものか、病気の影響か、意見が分かれています。
6(2)Aのひどくけなしていた。彼女の日記に「頭がよさそうにふるまっているが、作品はずいぶん至らない点がある」などと書
かれています。
7(2)Bの刺身のようなもの。「鱠」と書き、魚や貝などの肉を細かく切ったものです。現在ではなますは、野菜を細かく刻んで
三杯酢(さんばいず)やごま酢などであえた料理のことを指します。
8(2)AとC。例えば平治の乱(1159年)を起こした藤原信頼(のぶより)は、武芸にもすぐれていました。
9(2)@の端午の節句。かぶとも昔は菖蒲(しょうぶ)の葉(香りが強く、形が剣に似ている。また菖蒲は尚武つまり武道・軍事
を重んじることに通じる)でつくりました。
10(2)Bの百科事典。「太平御覧」(たいへいぎょらん)といい、全1000巻のうち300巻を買いました。
11(2)@の今の馬より小さい。現在のサラブレッド(アラブ原産)は、背の高さが155センチ程度、このころの馬は130センチ前後でした。
12(2)Bのほめたたえた平家方の武士を弓で倒した。休戦の中で扇の的を射たのに、これは明らかにルール違反でした。
1(3)@の23番。普通の人が貴族になることは、ほとんど望めませんでした。
2(3)Bの牛乳の加工品。「酥」(そ)と呼ばれ、牛乳を煮詰めてつくったものと思われます。
3(3)逃げていた先で、それなりに暮らしていたということでしょう。政府は、もともとの家と逃げた先の両方から税を取るぞ、と脅(おど)
していたのです。
4(3)@の「比」。でも「飛」や「日」をくずした「ひ」というかなもあったのです。
6(3)A? 和歌のやりとりがあったようですが、恋人どうしであった確かな証拠はありません。
7(3)@の仏教の教え。生き物を殺しては死んだ後に極楽(ごくらく)に行けない、という教えを信じていました。
9(3)すもうです。もともとは素手(すで)で戦う武芸の一つで、全国各地から役人などを集めて行いました。
10(3)Aの子ども。『平家物語』に載っており、実際に今の京都府警察にあたる機関が、子どもにうわさ話を集めさせていたようです。
11(3)Bの時速10キロ。よろいをつけた武士の重さは、100キロをこえます。
12(3)@の300。このころはまだ、武芸を修(おさ)めた武士たち同士による戦いでした。
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