日露戦争「勝利」の背景

1)開戦に至る過程
日清戦争(1894〜95)の勝利← →日本の朝鮮支配進まず(←欧米列強の抵抗)
                        
ロシアの朝鮮への影響力増大
1896(明治28)年 2つの日露協商(小村・ウェーベル覚書、山県・ロバノフ協定)
  
いずれもロシアの優位を確認したものとなる
    露、朝鮮への駐兵権、財政への干渉権獲得。軍事教官、財務顧問を派遣、露韓銀行開業。
    ↓
    同年末、朝鮮の民族運動によりいったん挫折(←イギリスの政治的・軍事的圧力も)
1900(明治33)年 北清事変→露、東清鉄道保護の名目で満州全域を占領。終結後も駐留。
1902(明治35)年 日英同盟締結→露、清に対し段階的撤兵を約するも、これを守らず、朝鮮にも日本の介入を制限しようとする。
<日露の主張のぶつかりあい> 
            
日:朝鮮を確保できれば露の満州支配は認める
            露:満州は当然確保、朝鮮についても日本とほぼ同等の権利を要求

                             ↓
                         交 渉 難 航 
1904(明治37)年   
開   戦       

2)戦争の経過
1904(明治37)年 2月 8日 陸軍、仁川上陸。海軍、旅順の露艦隊を攻撃
                9日 仁川沖で露軍艦2隻撃沈
               10日 露に宣戦布告
             5月    海軍、旅順港閉鎖作戦。陸軍、鴨緑江渡河作戦、南山の戦。
             9月    遼陽占領
            10月    沙河の会戦
1905(明治38)年 1月 2日 
旅順の露軍降伏
                中旬 黒溝台の会戦
             3月10日 奉天占領
             4月     日本、講和条件の検討に入る
             5月27日  
日本海海戦(日本の連合艦隊、露バルチック艦隊をほぼ全滅させる)
              〜28日
                     樺太占領
             8月     ポーツマス(米)で講和会議
 

3)日英同盟はなぜ結ばれたか? 
当時の世界の最強国イギリスはアジアで近代国家として歩みだしたばかりの小国日本となぜ同盟を結んだのでしょうか?
(問1)当時の世界情勢を思い起こして下さい。イギリスとロシアの領土の関係について、どのようなことが言えるでしょうか? 
<ヒント>ちょっと当時の歴史地図を見なければ難しいですよね。例えば、インド北西部、中東、黒海周辺などはどうなっていたでしょうか?

                                
(問1の答へ) 

・英露の中国・朝鮮をめぐる対立
日清戦争以前の1885(明治18)年、ロシアが朝鮮北東部の永興湾を使用したことに対し、イギリスが朝鮮沿岸の巨文島を占拠しました。そのためロシアは朝鮮本土を占領しないことを約束して、この結果イギリスが同島から撤退した、というできごとがありました。
                  
 〔日露戦争関係年表〕   

1870年 普仏戦争(〜71年)。フランス敗れ、プロシア<後のドイツ>に領土割譲。
1891年 露仏同盟(ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗)
露、シベリア鉄道起工(ウラル地方チェリャビンスク〜極東ウラズオストク)
1894年 日清戦争(〜95年)
1895年 下関条約。三国干渉(ロシア、ドイツとフランス誘い、日本に遼東半島返還させる)
1896年 ロシアと清の間で東清鉄道密約成立(ロシア、満州で鉄道敷設権獲得)。
1898年 イギリス、清より威海衛、九龍半島を租借。
ドイツ、清より膠州湾を租借。
ロシア、清より旅順、大連を租借。
ドイツ、バグダッド鉄道敷設権獲得。
ファショダ事件(アフリカ植民地で英仏が衝突、仏が譲歩)
1899年 アメリカ、清に対し門戸開放宣言。
フランス、清より広州湾を租借。
イギリス、南アフリカ(ボーア)戦争(〜1902年)
1900年 義和団事変(〜01年。清民衆が列強進出に反対し武装蜂起)。列強8カ国共同出兵(北清事変)
1901年 シベリア鉄道、東清鉄道と連絡。
1902年 日英同盟締結
1903年 ロシア、満州を占領。
ドイツ、バグダッド鉄道会社設立。
1904年 1月:ロシアで第1革命(血の日曜日事件)
2月:日露戦争起こる(〜1905年)
4月:英仏協商(勢力圏を互いに承認)
8月:第1次日韓協約(日本人顧問をおく)
1905年 第1次モロッコ事件(ドイツ、フランスのモロッコ進出に反対を表明し対立)
第2次日韓協約(朝鮮を保護国化)
1906年 ドイツ、新海軍拡張案(イギリスに並ぶ艦隊増強計画)
日本、南満州鉄道会社設立
1907年 英露協商(勢力圏を互いに確認、英仏露三国協商の成立)
日露協約(勢力圏を互いに確認)


(問2)上の年表を見ると、ロシアの中国進出が本格化したのは1898年からであることがわかります。1900年義和団事変で列強が共同出兵しましたが、このうち日本は約1万人、ロシアは6千人を出しました。では、イギリスが出した兵数はズバリ何人だったと思いますか?

                               (問2の答へ)

(問3)その理由は何でしょうか。再び上の年表から探して下さい。  <年表へ>

                               (問3の答へ)

◇日英同盟の内容
@イギリスの清、日本の清及び朝鮮における利益が他の国から侵害されるような場合、両国はこれを守るため適当な処置をとる。
A日英いずれかの国が第3国と戦争となった場合、締約国は厳正中立を守り、第3国の同盟国も参戦した場合は、締約国も参戦してこれに応じる。

4)日本がイギリスと同盟したことの様々な利点
(問4)日露戦争の際の日本の戦費は、現在の感覚でいうとどれくらいだったと思いますか?
<ヒント>国家予算を基準に予想して下さい。
       ア:1兆2千億円  イ:22兆円  ウ:78兆円  エ:220兆円

                               
(問4の答へ)

◇日本海海戦「大勝利」の背景
ロシアは旅順港に封鎖されている太平洋艦隊と連係して、日本の連合艦隊に大打撃を与え、制海権を獲得せんと、強大なバルチック艦隊の遠征を決定しました。これに対し、日本としてはロシアのもつ2セットの艦隊のうち最優秀の旅順艦隊をたたいておかなければ、海戦での勝利は期待できませんでした。したがって旅順の攻略はぜひとも成し遂げなければならなかったのです。
(問5)このバルチック艦隊は、ロシアから大西洋を西に進み、アフリカ西岸を回り、インド洋・南シナ海・東シナ海と1万8千海里(約3万3千キロ)の、当時としては類例のない大航海をしてきました。この間、バルチック艦隊にふりかかった大きな困難がありました。それはどのようなことでしょうか?
<ヒント>この間、当然各地の港に寄って石炭を補給しながら進まなければなりませんでした。ということは…

                              
  (問5の答へ)

(問6)バルチック艦隊の来襲が遅れたことは、日本の連合艦隊にとっては大変好都合でした。それはなぜでしょうか?

                                (問6の答へ)

◇フランスはなぜロシアを支援しなかったのか?
(問7)このことについて、考えられる理由を2つあげて下さい。

<ヒント>上にあげた日英同盟の内容、それと年表に1つずつあります。

                                
(問7の答へ)

5)ロシア帝国が戦っていたのは日本だけか?
(問8)このことについて、再び上の年表から考えて下さい。

                                (問8の答へ)

6)日本は本当に「勝利」したのか?
(問9)上の年表を見ると、日露戦争直後によくわからないできごとが起きています。それは何でしょうか?
<ヒント>いったい何のために戦争していたのでしょうか?

                                (問9の答へ)

◎答と解説
(問1)当時イギリスとロシアはインド国境(アフガニスタン)、ペルシア(イラン)、黒海など世界各地に対立の火種を抱えていたのです。つまり、極東アジアでの対立も、その世界的な対立の一環でした。

                                  (次へ)

(問2)答は約700名です。当時の世界最強国としては、意外なほどの少人数ですね。

                                  
(次へ)

(問3)年表のボーア戦争に注目できればOKです。当時イギリスはドイツ、フランスなどと建艦競争に加えてこのボーア戦争により財政が圧迫され、もはや自前の艦隊を世界のあらゆるところに展開できる力を失っていました。世界最大の植民地をもつということは、一見豊かそうに見えますが、それだけ外国との国境線が広がることとなり、防衛にかかる費用は膨大ものとなってしまうのです(お金持ちにはお金持ちなりの悩みがあるのと同じか?)。したがってイギリスとしては、地域によっては制海権を放棄するか、あるいは伝統の「名誉ある孤立」の政策を捨てて協商・同盟などのネットワークをつくるか、いずれかの道しか残されていませんでした。これが日英同盟成立のイギリス側の事情でした。

                                  (次へ)

(問4)答はエの220兆円です。この額は当時として約20億円かかったこと、それが国家予算(6億8千万円)の3倍弱にあたったことから、現在の国家予算と比較して割り出しました。この膨大な戦費は増税の他多くは外債でまかなわれました。ここで日英同盟を結んだ好影響が出たわけです(当時の金融の中心地イギリスと日本に好意的だった<もちろん多分に国益上そうした方がよかったからですが>アメリカが8億円分を買ってくれたのです)。なお日本の戦勝のたびに外債の売り上げが伸び、また評価額も高まった事実からみても、個々の戦争に勝ち続けることが日本の戦争継続にとって必須のことであったことがわかります。

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(問5)バルチック艦隊が航海した沿岸の多くは、日本に好意的なイギリスの植民地でした。したがって下に示したような武力行使以外のあらゆる妨害がなされたのです。特にマダガスカル島以東は、ロシアの友好国フランスの植民地ベトナムのみが、物資補給の期待できる唯一の地でした。おまけにそのフランスでさえ冷淡な態度をとり、むしろドイツの方が比較的友好的でした。
                           <バルチック艦隊の苦難>
             
         A:1904年10月15日、リバウ港を出港。
         B:10月22日、北海で敵と間違い英漁船を襲撃。同士討ちも起こる。
         C:10月26日、スペイン・ヴィゴ港に寄港するも港内での給炭を拒否され5日間足止め。
         D:11月 3日、モロッコ・タンジール(仏領)。英商人の妨害で給炭に手間取る。
         E:11月20日、ダカール港(仏領)。給炭をフランスが拒否。
         G:12月 6日、ポルトガル領グレートフィシュ湾。イギリスの干渉で寄港できず。
         H:1905年1月9日、マダガスカル島(仏領)。給炭に手間取り、2ヶ月余滞在。ここで旅順陥落の
           悲報を聞く。
           4月8日、マラッカ海峡を南下。
         I :4月14日、ベトナム・カムラン湾(仏領)で給炭するも、ウラジオストックまでの量に達せず。後発
           の艦隊を待ち1ヶ月滞在。
 
旅順陥落の知らせを聞いた後は、絶望的な航海を続けざるをえず、ウラジオストックへ逃げ込むことに作戦を変更しました。おまけに帝国が追加派遣を決定した艦隊は、古い艦齢の寄せ集めにすぎず、速度も遅かったので、艦隊として行動するためにはその最も遅い船に合わせなければならなかったので、余計に行動は遅れました。さらにめいっぱい石炭を積み込んだため(甲板にまで石炭を積み上げた様子を見た日本側は、まるでぼた山が動いているかのようだったと感じたそうです)ますます速力は遅くなりました。
当時のロシアの要人ウィッテは後年、バルチック艦隊の遠征について、艦隊の編成が実用的でないこと、ロジェストヴェンスキー提督の技倆が信用できなかったことをあげて、「最初からそれが無謀の挙であることを確信していた」と回想しています。


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(問6)上記のようなバルチック艦隊ではありましたが、やはり日本海軍にとっては脅威でした。それが上記のような事情で来襲が少なくとも3ヶ月以上遅れたことによって、その間日本の連合艦隊は、釜山に近い鎮海湾で激しい砲撃訓練を繰り返すことができました。ある研究者は、日本海海戦の際の両軍の射撃技術は、日本がロシアの17倍の制度をもっていた(下瀬火薬の破壊力は通常の2倍、射撃速度3倍、命中率3倍)と指摘しています。

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(問7)@日英同盟の第2項により、フランスはロシア側として参戦した場合、イギリスとの世界規模での戦争を覚悟しなければなりませんでした。A年表に見えるように、この時期のドイツの対外積極策を危険視したためです(この点に関してはイギリスも同じです)。

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(問8)ロシアでは1905年1月の「血の日曜日事件」をきっかけに、いわゆるロシア第1革命が起こりました。各地で暴動が起こり、6月には軍隊も反乱、戦争の継続は困難になりました。注目すべきは、革命勢力が、ロシア軍が敗戦を重ねるのに従って気勢を強めていったことです。

                                  
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(問9)答はもちろん1907年の日露協約の成立です。これは戦後、米英の満州への関与がめだつ中で、日露がお互いの勢力範囲を確定し、それを尊重しあうことを協定したものです。戦ったばかりの相手と協定を結ばざるを得ないほど、日本は列強間の勢力争いに巻き込まれていたことがわかります。このことから、日露戦争が英露の代理戦争的性格をもつものであった、とする指摘もあります。なお、ポーツマス講和会議も、賠償金を要求する日本側とこれを全面的に拒否するロシア側との対立が激しく、物別れ寸前に日本側が仲介国であるアメリカをはじめとする列強の圧力(米英にとって日本の勝利は望ましかったが、一方ロシアが大敗することによってヨーロッパの勢力関係<ことにドイツ>が崩れることを恐れていた)に屈する形で妥協したことは、教科書にはありませんが是非知っていただきたいエピソードです。

※これらの問題と答、解説は、黒羽茂『日露戦争はいかにして戦われたか』(文化書房新社、1988年)、井口和起編『近代日本の軌跡3日清・日露戦争』(吉川弘文館、1994年)、古屋哲夫『日露戦争』(中公新書、1966年)、森山茂樹『日韓併合』(吉川弘文館、1992年)、司馬遼太郎『坂の上の雲』(文藝春秋社、1972年)、児島襄『日露戦争』(文藝春秋社、1990年)、山田朗『軍備拡張の近代史』(吉川弘文館、1997年)、『争点日本の歴史6,近・現代編』(新人物往来社、1991年)、『岩波講座世界歴史22近代9』(岩波書店、1969年)、『日露戦争と露西亜革命(ウィッテ回想録)』(原書房、1972年)、『日本歴史大系第4巻近代T』(山川出版社、1987年)などをもとに作成しました。

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