主従関係成立の具体例(史料紹介)

◎教科書では、頼朝と御家人との間に結ばれたとされる主従関係ですが、実際には地方に
 おいて武士間で結ばれていたものが、最終的に頼朝によって統合されたわけです。
 ところでこうした関係が、実際にはどのようなことをきっかけとして結ばれていくのか、なか
 なか例がなく、説明しづらい概念ということが言えましょう。

 次の史料を見て下さい。


 一、 能美御庄被補地頭事、故高須平太宗久与下司藤三権守宗能依作田相論、宗久並
     子息所従等
令殺害故也、彼宗久殺害之時相具人々、
 別符方
  為平
公文     助平      宗平
 庄方
  助友  子息定澄   能道   子息宗能
為平聟
                                           (府)
 此人々相具
、宗久令殺害御庄罷出、守護所城次郎頼宗国符罷向之処、
 折節源平之御兵乱出来間、頼宗奉背平家、御世静
後、依宗久殺害之科、成没収之地
 被補頼宗地頭
ニハ本屋敷給宛志かハ、頼宗相随条、不及子細候、(以下略)

        
嘉禎2年(1236)3月 日付安芸国能美庄々官等注進状写(「正閏史料外編」)

(現代語訳)
 能美庄に地頭が置かれたのは、故高須宗久と能美宗能が水田をめぐって争った結果、宗能が宗久
 とその子、所従まで殺してしまったためです。その時、宗能と行動をともにしたのは次の人々です。
 (中略)これらの人々といっしょに、宗能は宗久を殺して庄園から逃亡し、守護所城頼宗をたよって
 国府に向かったのですが、この頃源平の戦いが起こったため、城頼宗は平家に背き頼朝方につき
 ました。戦乱が治まった後、宗能らは宗久を殺した罪により所領を没収されて、そこに頼朝は地頭
 職を設定して、城頼宗をこれに任じました。
頼宗は宗能らの屋敷だけはとりあげなかったので、彼ら
 は頼宗に随うようになったことは言うまでもありません。

 
この事例は、領地争いの末に殺害という罪を犯した武士の一族に、国衙の有力者城頼宗が本領
 のみ保証したことがいわば「御恩」となって、主従関係が成立したことがわかります。    

※この史料は、義江彰夫「国衙守護人補考」(『東京大学教養学部人文科学科紀要』75『歴史と
  文化』14、1982年)の中で紹介されています。


                    
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