ー列強の思惑と日本の政略
<関係年表>
1860 ロシア、沿海州を領有
71(明治4) ロシア、イリ地方をめぐり清と紛争(〜81年)
75(明治8) 江華島事件
76(明治9) 江華条約(朝鮮を独立国として承認、清との宗属関係を否認)
82(明治15) 朝鮮で壬午事変
84(明治17) 朝鮮で甲申事変。清仏戦争。
85(明治18)C天津条約(日清は将来朝鮮へ出兵するに際し、相互に事前報告することを取り決める)
英、露を牽制、巨文島を占領(〜87年)
89(明治22)A大日本帝国憲法発布
90(明治23)J第1回帝国議会
91(明治24)露、シベリア鉄道を起工(12年計画)。露仏同盟。
93(明治26)F外相陸奥宗光による条約改正交渉(対英)開始。
94(明治27)B〜D東学党の乱 E韓国政府、清に出兵求める
F日英通商航海条約(治外法権撤廃)。豊島沖海戦。 G日清戦争宣戦布告
H黄海海戦 J旅順占領
95(明治28)A威海衛占領。清の北洋艦隊降伏。 B清の講和全権李鴻章来日。C下関条約。三国干渉。
1)開戦に至る背景ー清を取り巻く情勢と日本の国内問題
明治政府は当初から朝鮮半島への勢力拡大を狙っていました。1875(明治8)年の江華島事件を口実に、
韓国を開国させた後の日本商人による激しい収奪や、当時の閔(びん)政権の失政により、1882(明治15)年
旧軍隊がクーデターを起こしました(壬午事変)が、事変後の主導権は清側が握り、それまでは積極的には干渉
しなかった韓国への宗主権をはっきり主張して、袁世凱を派遣するなど、支配権を強化しました。
(問1)ところがその直後、清は朝鮮に駐屯させていた大軍の半数を引き上げてしまいました。それは
なぜでしょうか?
<ヒント>上の年表を見て下さい。
(問1の答へ)
1893(明治26)年、第5議会は条約改正問題をめぐって反政府派(対外硬派)が力を伸ばしていました。伊藤
首相は衆議院を解散して対抗しましたが、翌年の選挙の結果、さらに政府打倒の勢いは強まりました。5月31日
に政府弾劾上奏案が可決され、絶体絶命の状況に追い込まれたところに、6月1日、清が韓国で蜂起した東学党
の乱の鎮圧のため韓国から出兵を要求されたという情報が2日に入ってきました。陸奥宗光外相が求めていた
「何か人目を驚かすようなこと」が起こったのです。清も、まさか国内が混乱している日本が呼応して出兵するとは
思ってもいなかったのです。
出兵に際し、陸奥は欧米諸国の思惑を考慮して「日本はなるべく被動者の位置をとり、常に清を主動者にする
よう」な方針をとりました。
6月11日、乱は収拾されました。日清両国は韓国進駐の理由を失ったわけですが、この後かえって兵を増強
させました(清2400名、日本7000〜8000名)。日本軍は12日以降、仁川に続々と到着しましたが、清軍は
牙山にあって動こうとしません。
6月16日、陸奥は、韓国の内政改革を要求する3ヵ条を提案します。
@朝鮮の内乱を日清の協力で鎮圧する
Aその上で内政改革のため、日清両国から委員を出し、行財政改革を行う。
B改革成功まで駐兵する。
(問2)これは韓国や清が承認することはないと、陸奥自身も予想していました。では、なぜあえてこうした
提案をしたのでしょうか?
(問2の答へ)
(問3)これに対し韓国の日本公使館は韓国に対し、「韓国政府は自ら清の属邦と考えているのか?」と
詰問することで、日本の立場を強化できると考えていました。それはなぜでしょう?
<ヒント>「YES」の場合:年表1876年の記事に注目
「NO」の場合:つまり韓国は独立しているということになり…
(問3の答へ)
2)英・露の調停が消極的だったわけ
ロシアは戦前、イギリスの支持を得た清の朝鮮侵略に反対するという点で、日本と協調できると考えていました。
そこで李鴻章から調停の依頼を受け、日本に清と同時に撤兵するよう申し入れましたが、日本が韓国内政改革
の必要性を強く唱えてこれを拒否すると、調停を打ち切ってしまいました。
(問4)そもそもこの時期は、日露戦争の時期に比べると極東地域や朝鮮に対する積極的姿勢を示してい
ませんでした。この背景は何でしょうか?
<ヒント>年表1860年や1891年の記事に注目
(問4の答へ)
一方のイギリスは、清での大きな政治的・経済的利害を有していました。それだけに日清の衝突を警戒していま
したが、何よりも最も恐れたのはロシアの南下でした。そこでロシアの単独での日清あるいは韓国への干渉を避け
るために、ロシアを含む他の列強と合同での干渉を何度か試みましたが、いずれも足並みが揃わず失敗しました。
やがて日清の対立が進む中で、清ではなく日本こそロシアの朝鮮進出に対抗すべき勢力である、との日本の
主張を受け入れていきます。
(問5)この他、イギリスが日本に接近していった事情には何があったでしょうか?
<ヒント>年表1891年の記事に注目
(問5の答へ)
日清対立の激化と並行して、日英条約改正交渉は最終段階を迎えました。成立を急ぐ日本は、譲歩を重ねて
7月16日に「日英通商航海条約」が締結されました。これは、日清開戦に当たって日本がその対外政策の基本
方針をイギリスに依存しようとしたことを、イギリス自身が暗黙のうちに認めたことを意味します。
3)講和交渉〜当初、戦争状態は続いていた!
1895(明治28)年3月20日 李鴻章来日。休戦を求めるも日本これを拒否
24日 講和に反対する青年、李を銃撃、重傷を負わせる。
↓
国際世論が清に傾き、列強の干渉を恐れた日本、無条件休戦を認める。
【講和に際しての日本側の主な要求】
・朝鮮の完全な独立を清が認めること
・遼東半島、台湾、澎湖島を割譲すること
・償金2億両を7年間に支払うこと
4月10日 第5回会談 日本の要求を過大とみた李、4日間の猶予を伊藤に求め許される。
この間に列国に仲裁を求めるべきと北京に報告。
↓
既に暗号解読に成功していた伊藤全権、李の意図を見抜き、私信を送り日本の
要求をのむよう説得。
↓
李、これを最後通牒と解し、本国に連絡。
12日 本国政府、李に打電。日本に譲歩を引き出すよう試み、だめなら電奏を経た上
で条約に調印するよう指示。
(問6)ここで李が、日本の断固たる意志をはっきり認めざるをえない光景を宿泊先の下関引接寺で見る
ことになります。それはどのような光景だったでしょうか?
(問6の答へ)
14日 李、このことを本国に連絡。
清政府、李に調印を指示。
4)賠償金がもたらしたもの
(問7)日本が清から得た2億3000万両(3000万両は三国干渉により遼東半島を還付した代償)
は、現在の価値でズバリどれくらいでしょうか?
<ヒント>国家予算を基準にしてください。
(問7の答へ)
(問8)このうち八幡製鉄所建設に使われたのは全体の何%だったでしょうか?
ア)0,16% イ)1,6% ウ)16% エ)61%
(問8の答へ)
◎答と解説
(問1)1884年に起こった清仏戦争に兵力を割かなければならなかったためです。なおこの他、清はイリ地方で
ロシアとも紛争を起こしていました。
(次へ)
(問2)清を主動者としたい陸奥は、無理だと思われる内容をつきつけて、清に拒否させることで開戦の口実に
しようとしたのです。
(次へ)
(問3)「Yes」つまり清の属邦だと答えれば、「それでは1876年の江華条約で、韓国は清の属邦ではないと
認めたのは、日本をだましたのか!?」と抗議できるし、また「No」つまり属邦でない、と答えても「では清兵は
韓国の独立を侵害して進駐しているのだから追い返せ!」と迫ることができる、と考えたのです。
(次へ)
(問4)ロシアは1860年に露清北京条約を結んで、沿海州を領有し、初めて極東地域に足がかりをつかんだの
です。これにより朝鮮と国境を接することになるのですが、朝鮮は経済的に貧しく、軍事的には長い海岸線をもつ
ためにロシアとしては防衛困難であり、外交的にも朝鮮を侵略することはイギリス・清との決裂をもたらすとみて(
現にその後1885年にイギリスによる巨文島占領事件が起こりました)、ロシア政府は朝鮮獲得はするべきでない
と判断していました。しかもロシア本国と極東地域を有機的に結ぶシベリア鉄道は起工したばかりですし、人口も
兵力も希薄(1895年時点で人口150万、兵力3万)で、工業も存在せず、食糧自給さえ不可能な状態でした。
(次へ)
(問5)1891年に露仏同盟が結ばれていますし、また後の三国干渉でもわかるように、ドイツもロシアに接近して
いました。こうした情勢の中で、イギリスは孤立感を深めていき、日本との関係が友好的であることを望むように
なっていったと考えられています。
(次へ)
(問6)4月12日から18日にかけ、日本の近衛師団と第4師団が続々と遼東半島の大連に到着しました。清が
最も恐れていた征清軍の増派部隊です。清へ渡る両師団を乗せた輸送船団は、李鴻章の宿泊先である引接寺
の眼下にある下関海峡を通過していったのです。
(次へ)
(問7)360兆円です。この2億3000万両は、当時の邦貨にして3億6000万円にあたります。当時の日本の
国家予算は約8000万円(!)ですから、その4倍強、現在の日本の国家予算がちょうど100万倍の約80兆
円ですから、こうなります。途方もないお金ですね。
(次へ)
(問8)アの0,16%が正解です。実は全体の84,7%は軍事拡大費に使われたのです。このお金を使って日本
がその後、どのような道を進もうとしたのか、如実にわかるような気がします。
★開戦直前の1894(明治27)年7月7日、陸軍の最高実力者山県有朋は、桂太郎宛書簡の中で「この際、
欧州諸大国が介入してこない時期をとらえて開戦するようにいろいろと工夫しているところだ」と述べているよう
に、政府と軍部は列国の干渉を生じない時を見計らって開戦の機会を熱心に求めていたのです。また陸奥外相
は、評価は様々ですが、ともかくイギリスがロシアをおそれていたこと、孤立化が進んでいたことなどの弱点を
少なくとも結果としては巧みに利用する形で外交を展開し、戦争を有利に導きました。対中戦争や対米英戦争
に至る時期の日本の外交と比べると、まことに興味深いものがあります。
※これらの問題と答、解説は、中塚明「日清戦争」(旧『岩波講座日本歴史近代4』岩波書店、1962年)、
宇野俊一『日本の歴史26日清・日露』(小学館、1976年)、隅谷三喜男『日本の歴史22大日本帝国の
試練』(中公文庫、1974年)、海野福寿『日本の歴史18日清・日露戦争』(集英社、1992年)、檜山
幸夫『日清戦争ー秘蔵写真が明かす真実』(講談社、1997年)、佐々木揚「英露の極東政策と日清開
戦」(『日清戦争と東アジア世界の変容上』(ゆまに書房、1997年)などをもとに作成しました。
◎このテーマは、拙著『疑問に迫る日本の歴史』(ベレ出版、2017年)にも掲載しました。
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