奈良時代のトラさん一家

○下の史料は、721年(養老5、長屋王政権時代、元正天皇)に作成された下総国葛飾郡大嶋郷嶋俣里の戸籍
  の一部です(正倉院に所蔵されていた文書)。


   戸       孔王部刀良(あなほべのとら)     年三一歳    正丁    課戸
                                   戸主孔王部三止従兄弟
   男       孔王部古徳麻呂             年  二歳    緑児
   弟       孔王部小刀良               年三十歳    正丁    兵士
   姉       孔王部若売                年四七歳     丁女
   従兄弟    孔王部古秦                年二五歳     正丁
   女       孔王部広刀自売             年  二歳     緑女
   外従父妹   孔王部伎弥売              年五三歳      丁女
   弟       孔王部宮売                年五一歳      丁女


    ※古代では、年下の女の兄弟を「弟」とも記している。

(問1)「嶋俣」とは、現在でも大変有名な地名です。どこのことでしょうか?

                            
(問1の答へ)

(問2)下の資料を参考に、トラさん一家が政府からもらえる口分田の総面積を答えて下さい。

           6歳以上の男:2反    6歳以上の女:男の2/3

                           
 (問2の答へ)

(問3)トラさん一家の場合はともかく、公民の誰もが満6歳になったその時に口分田をもらえるわけでは
    ありません。例えば15歳に達するまでもらえない人さえいます。それはなぜでしょうか?
    
<ヒント>政府はある人が6歳になったとどのようにしてわかるのでしょうか?そしてそれは…

                           
 (問3の答へ)

(問4)他に口分田がある一家の人々に班給される際に、予想される問題は何でしょうか?
    
<ヒント>「秋田刈る 仮廬(かりほ)を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」
            
※「仮廬」=仮の家

  
                          
(問4の答へ)

○それではトラさん一家がもらった口分田から、はたしてどれくらいの米の収穫が期待できるでしょうか?平安
  時代の史料では、田には4つのランクがありました。それぞれの1反あたりの収穫高をあげてみますと…

     
     上田=50束  中田=40束  下田=30束  下々田=15束

(問5)一般農民であるトラさん一家がもらったのは、よくて下田の可能性が高いといいます。それは
    なぜでしょうか?
    
 <ヒント>田をもらえるのは農民だけだったでしょうか?

 
                            (問5の答へ)

○トラさん一家は、反あたり1束5把の租を負担するきまりですが、下田とすると収穫量は340束、租の総額は
  17束になります。
(問6)これ、何かがおかしくないでしょうか?

                              
(問6の答へ)

○この収穫量でトラさん一家は暮らしていけたでしょうか?1合の米(玄米)は490キロカロリー、一家が生き
  ていくためには
1人平均約5合の米が必要と考えられます(今と違って副食が乏しいから)。340束は6800
  合、これを9人×365日で割ると
約2合にしかなりません。きびし〜っ!
  しかも、この中から来年の種籾として反あたり2束を残さなければならなかったし、庸・調もあり、さらに兵士
  も1人出さなければなりませんでした。その負担は大変なもので、当然逃亡する人たちも少なくなかったよう
  です。

○逃亡と政府の対応を、神亀3年(726)山背(やましろ)国(今の京都府)愛宕(おたぎ)郡出雲郷の計帳から
  みてみましょう。
(問7)計帳には妙に女の人が多いのです。それはなぜでしょうか?

                              
(問7の答へ)

(問8)多くの人の、黒子(ほくろ)の位置まで記されています。それはなぜでしょうか?

                              (問8の答へ)

(問9)ある戸では、9人も逃亡者が出ており、しかもその逃亡先まで書き込まれています。なぜこの
    ようなことになっているのでしょうか?
    
<ヒント>逃亡先が書いてあるということは、まだそこに住んでいるということなのでしょうか?なぜ
           連れ戻さないのでしょうか?

 
                             
(問9の答へ)

◎答と解説
(問1)
今の東京都葛飾区柴又、そう、あの「フーテンの寅さん」の舞台です。1300年近く前にもここにトラさん
    がいたんですね。

                             
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(問2)2反×3人(6歳以上の男)+2反×4人(6歳以上の女)×2/3=
11と1/3反
    =1町1反120歩(約130a)


 
                               
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(問3)
研究者によれば、6歳以上という意味は、6年ごとにつくられる戸籍に2度以上載せられることだそう
    です。
下の表を見て下さい。
       戸籍作成年    714年 (715年)  721年       727年
       班 田 年                      723年         729年
        A さん                    1歳@       7歳A    
9歳 
       
B さん             (1歳)   7歳@      13歳A   
15歳
      
    
ここで戸籍のつくられた721年に生まれたAさんは、最も幸運なことに9歳で班田を受けていますが、
     戸籍のつくられた714年の翌年に生まれたBさんは、最も不幸なことに15歳でようやく受給しています。

                                
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(問4)口分田は必ずしも1つの場所にまとまって支給されるわけではない、という問題です。例えば天平神護
    2年(766)ごろの越前国(今の福井県)坂井郡では、農民の本貫地(戸籍に載せられた土地)と口分田
    の所在地とが数qも離れていたことがわかっています。したがって、ヒントにあげた和歌のようにやむを
    えず仮屋を建て、そこに仮寝して農事にあたったのでした。

                                
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(問5)
貴族・官人たちがもらっていた田地が質の高いものだったからです。したがって一般農民には全くの
    荒れ地や悪質な水田しか与えられなかったと考えられます。

                               
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(問6)そう、「租は収穫量の3%」という常識は、上田でももらわないと成り立たなかったのです。下田では5%
    にもなってしまうのです。

                               
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(問7)女の人には税負担がないからです。虚偽の申告でもしたのでしょうか。

                                
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(問8)これは人相書きのようなもので、逃亡してもわかるように、です。

                                
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(問9)本貫地と浮浪先の両方で税金をいつまでもとり立てるぞと脅して、浮浪・逃亡先から本貫地に戻るように
    仕向けようとしたのです。
しかし、このような基本方針も、天平8年(736)に大きく変化しました。この年2
    月の勅によると、摘発された浮浪人のうち、本貫地に帰らない者は浮浪人帳という帳簿をつくって登録し、
    調・庸をとるようにしたのです。つまり律令国家は、戸籍・計帳に登録されている公民身分の外側に生じて
    きた浮浪人を、それまでのようにあくまでも公民身分の中に押し戻そうとするのではなく、浮浪人のままで
    公民とは別に把握することにしたのです。
律令の原則を押し通そうとする態度を改め、現実をある程度認
    め、これに柔軟に対応していこうとしたわけで、この重大な原則変更の延長線上に、743年の墾田永年
    私財法をとらえることができます。

※これらの問題と答・解説は、加藤公明『わくわく論争!考える日本史授業』(地歴社、1991年)、
 栄原永遠男『日本の歴史4 天平の時代』(集英社、1991年)、早川庄八『日本の歴史4 律令国家』
 (小学館、1974年)などをもとに作成しました。

 
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