人形による日米交流とその結末

 アメリカからやってきた小さな使節たち

    明治末期になると、多くの日本人がアメリカへ移住しました。1920年(大正9)にはアメリカ全土で約12万人、カリフォルニア
    州では人口の2%にあたる7万人の日系人が生活していました。しかしアメリカ国内では第一次世界大戦後、孤立主義が
    復活し、また日露戦争後の日米関係の悪化などもあり、低賃金でもよく働く日本人移民への反感が強まっていきました。
    1924年移民法では、各国からの移民受け入れ数に制限を設けましたが、このうち日本を含むアジア出身者は、全面的に
    禁止となったのです。また特にカリフォルニア州では1913年に排日土地法が制定され、日系一世は土地所有ができなくな
    っていました。

    こうして日米関係が悪化する中、アメリカ人宣教師シドニー・ルイス・ギュリック博士(同志社大などで教えるなど二十数年
    の在日経験があった親日家)は1927年(昭和2)、人形を通して日米の子どもたちの親善を図ろうと、全米に呼びかけました。

   
 【問1】博士がこのアイデアを思いついた背景に、当時日本の子どもたちの間でよく歌われていた、ある童謡の存在
        がありました。何という曲か、わかりますか。

                            
(問1の答えへ)

    博士は実業家として著名な渋沢栄一に協力を求め、渋沢もこれに賛同して秩父宮を親善大使とし、外務省や文部省とも
    打ち合わせて、人形の受け入れ準備を進めました。

    一方アメリカでは、この運動に対する批判もありました(実は日本国内の一部にもあった)が、子どもたちを含む多くの人々
    が賛同して資金を提供し、結局12739体もの人形を揃えることができました。

    
【問2】そしてこの人形を贈る際に、アメリカ側はある特別な配慮を行いました。どのようなことだと思いますか。

                            
(問2の答えへ)

 日本での歓迎
    
    昭和2年3月3日、東京で人形の歓迎式典が行われ、文部大臣、外務大臣、駐日アメリカ大使、渋沢ら日米関係団体の代
    表者、アメリカンスクールの子どもなど2000人が出席しました。
    その後、人形たちは各都道府県に配られ、受け入れ先となった各地の小学校などでも、あらためて歓迎式が行われました。

    当時、日本の子どもたちは一般にきわめて貧しい生活を送っていましたが、アメリカについては強くて大きく、また経済や文
    化も進んだ国と教わっていたので、憧れの対象でした。そのアメリカから人形が贈られてきて、しかもその人形は、かわいら
    しい洋服を着て、抱き起こすと「ママー」と声を出したので、すぐに人気者になったのです。
    ある小学校では、校舎の玄関にひな壇をつくり、そこにアメリカから来た人形と日本人形を一緒に飾り、校長が「日本とアメ
    リカが仲よくするための人形です」と紹介しました。


3 日本人形の渡米

    こうした状況をうけ、文部省は同じ年の秋に、お礼のため伝統的な日本人形をアメリカに贈ることを提案し、全国の子どもた
    ちに呼びかけました。これに多くの子どもたちがこたえ、一人1銭(現在の約50円)を出し合い、全部で58体の人形を買って、
    同じようにパスポートと手紙を添えて11月にアメリカへ贈りました。

    
【問3】この時贈った人形一体は、現在のお金にしていくらくらいだったと思いますか。

                            
(問3の答えへ)

  
 アメリカ各地でも、この日本人形の歓迎行事が行われ、各州に一体の割合で配られ、それぞれの公共施設に保管されました。

4 アメリカ人形たちの運命 

    それから14年後、ご存知のように太平洋戦争が始まりました。

    
【問4】戦争中、アメリカ人形たちはどのように扱われたと思いますか。
        
@敵国ではあったが、子どもたちの交流だから、ということでそのまま大事にされた。
        A憎いアメリカから届いたもの、ということで燃やされたりして処分された。

                            
(問4の答えへ)

 それでも人形を守った人たちがいた 
                       

   ・三重県の河村先生(ひそかに自宅に持ち帰り、押し入れに隠した)
   ・北海道の下郡山先生(処分したことにして、校長公舎の屋根裏に隠した)
   ・愛知県の鈴木校長(書棚の奥に入れ、前に本を並べて隠した)
   ・群馬県の金子先生
     教え子たちが次々に出征し、戦死の知らせがあとをたたない状況の中、「どうかいのちを大切に。生きて帰ってきてほしい」
     という願いを人形に託し、学校の作法室の戸棚に隠した。
   
   ちなみにアメリカでは戦時中、贈られてきた日本人形を燃やすなどということはなかったそうです。国力の違いからくる余裕も
   あったでしょうが、軍国主義が支配していた国と、自由主義国との大きな違いに由来することなのかもしれません。

 〔参考文献〕
  ・磯部佑一郎『青い目の小さな大使 日米人形交歓の記録』(ジャパンタイムズ、1980年)
   ・歴史教育者協議会編『世界と出会う日本の歴史5』(ぽるぷ出版、1999年)

※なお、平成29年(2017)8月1日付けの下野新聞によれば、栃木県矢板市立泉小学校にも「青い目の人形」が残っていて、同校の
  校長先生と教員OBの方が、それらについてまとめた学習教材『泉小・青い目の人形物語 時を超えて』を作成された、とのこと
  です。


※※この教材を用いて、私は平成28年1月に真岡市立長沼小学校6年生の児童に特別授業をさせていただきました。子どもたちの
   感想については、
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◎答えと解説

 (問1)大正10年(1921)に発表された、野口雨情作詞、本居長世作曲の「青い目の人形」です(「♪〜青い目をしたお人形は アメ
     リカ生まれのセルロイド…」)。この曲は大正12年に起きた関東大震災で、海外から多くの義援金が寄せられましたが、アメ
     リカ国内での寄付呼びかけの際にも歌われ、ギュリック博士も知っていたようです。

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 (問2)人形一体一体に「ヘレン」「メリー」「ピオ」などの名前をつけ、さらに本物そっくりのビザとパスポートを持たせました。単なる
     モノとしての人形ではなく、親善大使としての役割を期待して、人間と同じように扱ったのです。

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 (問3)なんと約175万円です(当時のお金で350円)。市松人形と呼ばれる伝統的な日本人形で、有名な人形師によってつくられ、高さ
     80pのかなり大きなものでした。

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 (問4)残念ながらAです。ある小学校では、5年生にその扱いをどうすべきかについてアンケートを行いましたが、その結果、大部分
     は「こわせ、焼いてしまえ、送り返せ、海へ捨てろ」などの意見だった、と昭和18年(1943)2月19日付けの毎日新聞が伝えてい
     ます。同紙には文部省の課長の個人的な談話として「(もし飾っているところがあれば)壊すなり、焼くなり、海へ棄てるなりする
     ことには賛成である。常識から考えて米英打倒のこの戦争が始まったと同時にそんなものは引っ込めてしまうのが当然だろう」
     といった内容のことが書かれています。

     これは決して子どもたちの本心とは思えません。現に当時5年生だったある女性が、「燃やされる人形を見て『なんであんなか
     わいそうなことをするんだろう』と思った」と回顧しているのです。

     子どもは大人の影響を強く受けます。徹底した軍国主義教育を受けていた彼らは、アンケート結果のような答えをすれば大人た
     ちから褒められる、と思いこんでいたのでしょう。文部省からは人形の扱いについて正式な命令はありませんでした(尤も軍から
     は焼却命令が出たという)が、大人がそうした雰囲気を「忖度」して、過剰反応していった、というのが実情でしょう。子どもたちは
     そのような気運に敏感に反応しただけなのだと思います。

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