モンゴル〜世界制覇を可能にしたものは?〜

○ 13世紀後半、モンゴルはその広さ3500万Km平方キロという空前絶後の世界的帝国を築きあげました(20世紀初めに膨大な植民地を持っていた大英帝国でさえ3100万平方キロ)。これを可能にしたものは、いったい何だったのでしょうか、考えていきましょう。

資料@ 
 モンゴル兵の使う弓は合成弓といい、獣の角や筋肉の腱(けん)をにかわ(動物の皮・骨・筋などを煮固めて作る接着剤)ではりあわせたもので、短弓ですが日本の和弓のように単一材料で作ったものより飛距離は25%長く、鉄の鎧(よろい)も射抜いてしまいます。また石や石油の入った壺(つぼ)を投げる機械など、当時の世界最先端の兵器を使っていました。

資料A
 モンゴル兵は、有利とみれば思い切り深く突撃しますが、不利とみれば無理をしない。敵が好機とみて突撃してくれば、さっと散開して逆に押し包み殲滅(せんめつ)してしまう。だから、勝つときは一兵も逃さず、敗れたときも四散して逃げるため捕まることがない。〜『黒たつ事略』より
(問1)このような戦闘の時に欠かせないのが馬です。ところで馬は、戦闘以外でもモンゴル人にとって非常に役立つものです。例えば食料がなくなれば食べ、矢がつきれば骨を削って使い、喉(のど)が渇けば血を飲み(うぇ〜かえって喉渇きそう〜)ます。さて、馬の皮は、ある困った場面で役立ちました。それはどのような場面でしょうか?
<ヒント> モンゴル人は遊牧民、すなわち移動生活者です。

                                 (問1の答へ)

資料B
 モンゴルは抵抗する町には皆殺し戦術を用いました。城を囲んですぐ降伏すれば助けますが、1日抵抗すれば3分の1を殺します。2日抵抗すれば半分を殺し、3日抵抗すれば皆殺しにしてしまいました。また、捕虜は原則として殺してしまいます。ロシアでは、捕らえた諸侯の上に敷物を敷いてその上で祝宴を開き、これを圧殺してしまったということです(日本でも信長が浅井・朝倉を滅ぼした際に当主のどくろを杯にして祝った、といいますがそれ以上!?)。

(問2) 捕虜を殺してしまうというのは、モンゴル人に残忍性があるから、とばかりは言い切れない他の理由もありました。それは何でしょう?
<ヒント> やはり移動生活ということから考えて下さい。

                                 {問2の答へ}

 上の3つの資料から言えることは、武器の優秀さ、戦術の巧みさ、徹底した殲滅(せんめつ)主義、などが戦争に勝ち続けた理由であった、ということでしょう。

資料C 内陸アジアにおける商人の活動
 
内陸アジアの乾燥地帯は、いわば草原と沙漠の「海」にたとえられます。人間が住むことのできるオアシスや川の流域は「海」にばらまかれた大小の「島々」です。その「島々」を結ぶ「連絡船」の役割を果たしたのが、商人たちでした。彼らは、顧客を求めて中国から西アジア、北インドから東ヨーロッパまで縦横に旅を続けました。


(問3) もしあなたが東西交易をになう商人だとしたら、これから通る隊商路は、A) 幾つかの国家が分立していて抗争している状態 B) ひとつの統一国家だけが存在する状態、のどちらがあなたにとって都合がいいでしょう?理由も含めて考えて下さい。
<ヒント> どちらにもいい点はあるでしょうが、最低限これだけは商人たちにとって必要なこと、っていうのを考えてください。

                                 {問3の答へ}

資料D オトラール事件(1216年、日本では鎌倉時代前期)
 チンギス=ハーンは、東西交易の利益を独占して繁栄していた中央アジアのホラズム王国に友好を求めて450人の大キャラバンを派遣しました。ところがホラズム国王は、部下に命じてこれを襲わせ、人は殺し、他は奪ってしまいました。国王は「犯人は盗賊」と言い逃れようとしましたが、ただ一人の生き残りが脱出・帰国して事情は明らかになりました。チンギス=ハーンは、これによってホラズム遠征を決意したのです。


(問4) 商人が、その特性を生かしてチンギス=ハーンのモンゴル軍に協力できることは何でしょうか?
<ヒント> 資料Cにあるように、商人はいろいろな場所に行けたのです。ということは…

                                 {問4の答へ}

答えと解説
〔問1〕
 川を渡る際に浮き袋として使いました。
                                   (次へ)

〔問2〕
 彼らは厳しい自然環境(ステップ地帯)の中で移動生活を送っています。したがって、食料は最低限しかもっておらず、捕虜を生かしておくほどの余裕はなかったのです。
                                   (次へ)
○ 積極的なイスラム商人たちは、より多くの利潤を求めてイスラム世界の外にも進出しました。遠隔地貿易には隊商貿易と商船貿易があり、隊商は中国・南ロシア・内陸アフリカを往来しました。こうした地域の集落には、商人たちの居留地が設けられました。主な商品は、香辛料・薬品・金・宝石・象牙・木材・絹織物・陶磁器・奴隷などでした。

〔問3〕
 モンゴル出現以前の12世紀のアジアは、東から金・西夏・ウイグル・カラ=キタイ・ホラズム王国・アッバース朝・アイユーブ朝などの諸国が分立・割拠していました。したがって治安の悪さや交易相手選択の制限、それぞれの国で高額な通行税の賦課などという、商人たちにとって不利益な状況が続いていました。
彼らは交易を行う全地域の政治的・軍事的統一と平穏な大交易圏の出現を期待していたのです。したがって、答えはBです。
                                   (次へ)

 ホラズム王国はユーラシア大陸を東西南北に走る交通路の交差点にあたる西トルキスタン地方を握っていたため、大いに繁栄していました。そのホラズムが、商人を襲う事件を起こしたことは、彼らのホラズムに対する評価を決定的に落としてしまったことを意味します。この事件以後、商人たちは、既に商人たちの活動に対する保護を表明していた新興のモンゴルとの結びつきを強めていきます。

〔問4〕
 資料Cから、商人の特性とはユーラシア大陸の広範な地域を舞台に活動している、ということがわかります。
彼らは、その交易の必要から各地の人情・風俗や有力者の人柄・政治方針・人間関係、時には軍隊の装備・配置・編成なども知り尽くしていなければなりませんでした。こうした情報をチンギス=ハーンに提供することがその勝利に大いに役立つことは言うまでもありません。

○ マルコ=ポーロは、その旅行記の中でモンゴル帝国全土をおおう駅伝制度に詳しくふれ、国内に少なくとも20万頭を下らない数の馬がこの制度のために使役され、しかるべき装備を整えた建物1万が用意されていて、非常に効果的に運用されている、と述べています。これも、今までみてきたような、東西交易路の維持に極めて厳しかったモンゴルの特性を考えあわせれば、理解しやすいのではないかと思います。

※ これらの問題と答え・解説は、飯塚浩二『東洋史と西洋史のあいだ』(岩波書店、1963年)・小沢郁郎『世界軍事史〜人間はなぜ戦争をするのか』(同成社、1986年)・千葉県歴史教育者協議会世界史部会編『世界史100時間上』(あゆみ出版、1986年)・小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書、1960年)・勝藤猛『成吉思汗〜草原の世界帝国』(清水書院 人と歴史シリーズ、1984年)・宮崎市定編集『世界の歴史6 宋と元』(中央公論社、1961年)などをもとに作成しました。

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