宗教改革をささえたもの

1)贖宥状(しょくゆうじょう)とは?
1514年、ドイツの大司教に任命されたアルブレヒトは、ローマの聖ピエトロ教会新築のため、ドイツ国内で贖宥状(免罪符とも言う)を発行しました。彼からその販売を任された僧テッツェルは、町の広場で民衆に「お前たちの霊魂と死んだ親しい者の救いのことを考えないかね。ほんの僅かな捧げ物で、お前たちはそれを買い戻せるのだ。…そもそも、お金が箱の中でチャリンと音を立てさえすれば、魂は煉獄(れんごく、火によって苦しみを受けるところ)から抜け出せるのだ」と説きました。

(問1)当時ドイツは、200余りの小国に分裂していたため、ローマ教会は利益をむさぼり集めました。このことからドイツは「ローマの〜」と呼ばれました。さて、それは何でしょう?

          ア 菜種    イ 牝牛    ウ 奴隷    エ 高利貸し

                                (問1の答へ)

2)ルターの批判〜95か条の意見状から
ルターは贖宥状の発行自体は否定しませんでしたが、それをみだりに用いることは非難しました。そして次のような売り声を聞いて、沈黙を破ったのです。
(問2)その売り声とは、「贖宥状を買えば、〜しても許される」というものでした。さて、〜にはどんな行為が入るでしょうか?
<ヒント>キリスト教で最も尊い人に対して行う、最もひどい行為です。

                                (問2の答へ)

ルターは1517年に発表した95か条の意見状の中でこう述べています。
(第36条)「真に悔い改めているならば、キリスト信者は完全に罰と罪から救われており、それは贖宥状なしに彼に与えられる」

3)ルターの考えの広がりをささえたもの〜活版印刷術
古い歴史書に「ルターの95か条の意見状は2週間とかからずにドイツ全体へ知れ渡り、1ヶ月のうちにはほとんど全キリスト世界にゆきわたった」とあります。
こうしたことを実現させたのが、1450年頃、ドイツのグーテンベルクにより発明された活版印刷術です。

(問3)もっとも印刷技術そのものは、その前に中国・宋で11世紀半ばに発明されていました。ヨーロッパでこうしたアイデアが15世紀まで出なかった事情は何でしょうか?
<ヒント>印刷技術があっても…

                                (問3の答へ)

《     》の伝播
2世紀初め:中国・後漢で蔡倫が発明→751年:タラス河畔の戦いで唐からイスラム世界へ→13世紀末:ギリシアやスペインを通じてヨーロッパへ
(問4)問3の答がつくられる以前、代わりにヨーロッパでは何が使われていたかご存じですか?

                                (問4の答へ)

4)活版印刷の開始
(問5)写本と比べて、印刷本のいい点を2つあげてください。

                               
 (問5の答へ)


(問6)グーテンベルクが1456年に印刷した聖書は、だいたい今のお金に換算して、いくらしたと思いますか?
<ヒント>学校の先生の年収を基準に考えました。

                                
(問6の答へ)

5)印刷技術と市民社会の成立
こうして聖書をはじめとするいろいろな書物が大量に普及したことが、宗教改革だけでなく、「地動説」や「市民革命」などの考え方を一般市民に伝えることとなりました。まさに情報公開ですね。
(問7)本が出回ることで、ある種の工業がさかんになりました。さて、それは何でしょう?
<ヒント>「風が吹くと桶屋がもうかる」式に考えてください。

                               
 (問7の答へ)

◎答と解説
(問1)イの「ローマの牝牛」が正解です。搾取の対象としての例えです。

                                  
(次へ)

(問2)ルターは、贖宥状が霊魂を救うためではなく、金を得る目的で利用されていることを攻撃しました。僧テッツェルは、ルターの属する教区の境界線ぎりぎりのところまで近づいて、贖宥状を売っていました。ルターは、それを買った者から、テッツェルが
「これを買えば、キリストの母マリアを犯しても許される」と言っているのを聞き、例の95か条の意見状を発表するにいたったのです。

                                 
 (次へ)

(問3)紙がなかったというのが答です。13世紀末頃、イスラム世界からヨーロッパに伝来し、14世紀末にはドイツでも良質の紙が大量生産されるようになっていました。

                                  
(次へ)

(問4)羊、山羊、子牛などの皮が使われていました(紀元前2世紀頃から)。これは丈夫ではありますが、高価で、大きさもまちまち、数にも限りがありました。

                                  
(次へ)

(問5)まず1つは正確であるということ。そして2つめは大量生産できるということで、このことが本を安価にし、多くの人にルターの主張が理解される大きな力となった。95か条の意見状の印刷物は、はじめラテン語で書かれていましたが、直ちにドイツ語に訳され、ドイツ国民全体に読まれるようになりました。その速さについて、ある古い歴史書は「まるで天使が飛脚になり、それをあらゆる人々の目の前に運んでいったかのようであった.」と表現しています。今の感覚で言えば、ちょうどIT革命のようなものだったのでしょう。

                                  
 (次へ)

(問6)この印刷術出現当時の聖書の価格は、当時のお金で42グルデンでした。当時のある初等学校教師の年俸が(おそらく現物支給をのぞいて)4グルデンくらいだったといいます。
仮にこれを現在の400万円とすると、聖書は4200万円ということになります。大変高額ですが、これでも写本に比べればだいぶ安くなっていますし、ルターの時代にはさらに安くなっていたに違いありません。これによって、王侯貴族のみにしか手にすることのできなかった本が、市民に近づいたことになります。革命と呼ばれるような社会的な変革は、こうした多くの人々の理解がなければ実現不可能であることを考えますと、活版印刷術の宗教改革(さらには後の啓蒙思想の普及や市民革命)実現に果たした役割は、相当大きなものがあると言えましょう。なお、グーテンベルクの42行聖書は、世界に21冊現存するとのことです。

                                  
 (次へ)

(問7)答はレンズ工業です。ルネサンスに入って凸レンズをきれいに磨き上げた虫メガネがつくられるようになり、これはさらに書物の普及に連れて老眼鏡と近眼鏡を生みました。特にオランダではさかんでした。

※これらの問題と答、解説は松田智雄編『世界の歴史7 近代への序曲』(中央公論社、1961年)をもとに作成しました。また、紙についての調査を、1994年8月12日に東京都北区堀船所在の紙の博物館にて行いました。

                          
 <世界史メニューへ>