中世ヨーロッパの交通事情
                                      〜国王と商人が手を結んだわけ

○旅は今日では人々にとって大きな楽しみの1つですが、中世ヨーロッパの人々にとっては、大変な苦しみでした。
  古代ローマとは違って、道路は舗装されてはおらず、夏はほこり、冬は泥んこでした。道で「溺れ死ぬ」ことさえ
  あったそうです。

(問1)13世紀のイギリスの法律によると、街道に沿った垣根、森林のやぶは、道の両側200フィート
   (約60m)を焼き払い、空地帯にしなければなりませんでした。それは何のためだったでしょうか?

<ヒント>これで通行する人々にとっては、道路の周辺の見通しがよくなったわけです。


                                (問1の答へ)

○旅人、特に商人にとって旅の苦しみは他にもありました。特に耐え難かったのは、各地の領主から様々な種類
  の税金を取り立てられることでした。


(問2)歩いて通る人への「徒歩税」、車を使う人への「車税」、そして川を渡る事に関して、3種類の税が
    ありました。川そのものに対する「河川税」、橋を利用するための「橋税」、それとあと1つ何でしょう
    か?


                                (問2の答へ)

○それからもちろん、売るための商品全てに税が課せられました。

(問3)したがって、中世封建制下の商人が、旅をしながら商売をするのは、身の危険ということ以外に、
    大変やりずらいことでした。それはなぜでしょうか? 

<ヒント>この時代、領主が各地に分立して支配権を行使していたのです。

                                 (問3の答へ)

(問4)1308年、2人の貴族が城でベネチア商人に、たくさんの織物を市価の半値で売ろうとしていました。
    なのに商人は、なぜか浮かない顔をしています。というのは、この織物は、もともと彼らの運んできた
    売り物だったのです。ではなぜ、こんなことになっているんでしょう?
<ヒント>当時、貴族(領主)は、自分の支配地には、あたかも国家のような、他人をよせつけない絶対的な権利を
      もっていました。


                                 (問4の答へ)

◎答と解説

(問1)税金をおさめる僧をねらう「追い剥ぎ」(ハイウェイ・メン)の襲撃を避けるため見通しをよくしたのです。

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(問2)川の浅瀬を渡る際の「浅瀬税」です。旅人が他の道を通ろうとすると、これを引き止めてわざわざ自分の
    領地の道や橋を使わせようとした領主もいました。これらは領主にとって、市場税とともに重要な財源に
    なっていました。


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(問3)封建社会では、領主が地方ごとに支配権を握っていたので、商人はその領域を通るたびごとに税をと
     られ、その結果商品は元値から桁違いに高いものとなってしまったのです。
14世紀末にドイツでは、
     ライン川に64、エルベ川に35、ドナウ川に77の通行税取引所があった、と言われています。


                                (次へ)

(問4)いったん積み荷が転がり落ちると、道路は自分(領主)の支配するものだから、路上の物もまた自分に
     所属する、と主張して取ってしまったのです。

※これらの問題と答え・解説は、堀米庸三編『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』(中公文庫、1974年)、木
 村尚三郎『ヨーロッパ文化史〜伝統と現代〜』(NHK市民大学テキスト、1983年)、同『ヨーロッパから
 の発想』(角川文庫、1983年)などをもとに作成しました。


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