【日本史教材のたね】 中世


《1》主従関係成立の具体例

 教科書では、源頼朝と御家人との間に結ばれたとされる主従関係ですが、実際には地方において武士間で結ばれていたものが、
 最終的に頼朝によって統合されたわけです。
 ところでこうした関係が、実際にはどのようなことをきっかけとして結ばれていくのか、なかなか例がなく、説明しづらい概念という
 ことが言えましょう。次の史料を見てください。

  嘉禎2年(1236)3月日付け安芸国能美庄々代官等注進状写(「正閏史料外編」)

  能美庄に地頭が置かれたのは、故高須宗久と能美宗能が水田をめぐって争った結果、宗能が宗久とその子、所従まで殺して
  しまったためです。その時、宗能と行動をともにしたのは次の人々です。(中略)これらの人々と一緒に、宗能は宗久を殺して庄
  園から逃亡し、守護所城頼宗を頼って国府に向かったのですが、この頃源平の戦いが起こったため、城頼宗は平家に背き
  頼朝方につきました。戦乱が収まった後、宗能らは宗久を殺した罪により所領を没収されて、そこに頼朝は地頭職を設定して、
  城頼宗をこれに任じました。頼宗は宗能らの屋敷だけはとりあげなかったので、彼らは頼宗に従うようになったことは言うまでも
  ありません。

  
この事例は、領地争いの末に殺害という罪を犯した武士の一族に、国衙の有力者城頼宗が本領のみ保証したことが、いわば
  「御恩」となって主従関係が成立したことがわかります。

  ※義江彰夫「国衙守護人補考」(『東京大学教養学部人文科学科紀要』75、『歴史と文化』14、1982年)