【日本史教材のたね】 近世

《1》「田畑勝手作りの禁」についての誤解

 「田畑勝手作りの禁」は、「田畑永代売買禁止令」(寛永20・1643年)や「分地制限令」(延宝元・1673年)とともに、近世前期
 (17世紀後半)における幕府農政上の基本的政策で、百姓の小経営をできるだけ安定させ、年貢などの税の徴収を確実に
 する目的があった、とされてきました。
 しかし、これらのうち「田畑永代売買禁止令」と「分地制限令」については、拙著『日本史へのいざない』において、田中圭一
 氏によるまったく異なるとらえ方を紹介しました。

 すなわちまず「田畑永代売買禁止令」については、
 ・実際村には田地売券(確かに売ったことを証明する売り主から買い主に渡す書類)はいくらでも存在する一方、この法令に
  により処罰された例をあげるのは難しいこと
 ・一国天領である佐渡国の場合、13の条令の1つとして出され、しかもそれらの内容はいずれも禁止令というより、道徳的な
  教え(例えば「市中に出てむやみに酒をのまないこと」など)を説いているようなものであること
 ・度重なる洪水により銀山が大損害を受け、また凶作という緊急事態に対処してのものであること
 などが指摘されています。
 また「分地制限令」については、
 ・越後国魚沼の塩沢村の例では、入会山(いりあいやま、村人が肥料・飼料、屋根葺き用などの草や薪、建築用材を採取する
  ために共同で利用する山)の利用をめぐって百姓間に対立が起き(これを開発するか否か)、その中で村人たちが自主的に
  取り決めた「村掟」の中に「今後分家をつくらない」とあり、これを代官に認めさせたこと、すなわち分地制限は「このままいった
  らわれわれは共倒れになってしまう」という危機意識から百姓たちが望んで決めた内容であったこと

 をあげています。
 
 ここでは、本城正徳氏の研究にもとづき「田畑勝手作りの禁」についてみていきましょう。
 本城氏によれば、
 @近世前期(17C)本田畑における商品作物一般に対する継続的ないし体系的な作付制限令は出されていない
 A作付制限令に「勝手作」という文言は、まったく使われていない
 Bゆえに「勝手作」→作付を制限、という領主側の論理は確認できない
 などのことがわかっているそうです。
 
 実は近世前期における作付制限の圧倒的大部分は「煙草作制限令」だったのです。これは喫煙による火災防止のため、喫煙
 禁止の徹底化を目的としたものでした。

 そして寛文・延宝期(1661〜1680)に12回出された煙草作制限令は、酒造制限令とセットでした。これは、酒造りを制限してこれ
 に用いる米の消費を抑え、かつ本田畑での煙草作りを禁じて米の消費増大を図るという、需給両面からの米価引き下げを目的
 としています。
 しかしこれも17世紀末には、本田畑の従来作付の半分まで煙草作りが公認されたため、有名無実となってしまったのです。
 また寛永20年(1643)8月に全国令としては唯一、煙草・木綿・菜種一括の作付制限令が出されていますが、これも全22ヵ条の中
 の3ヵ条で、凶作による飢饉という非常事態下での緊急的措置でした。

 実は幕府の商品作物に対する基本方針は、(米作りを奨励するためにこれを抑えていた、というイメージが強いのですが)むしろ
 これを認めて、税制の中に取り込んでいこうとするものだったのです。
 すなわち、いわゆる四木(桑、楮、漆、茶)については、一般的な田地より高い斗代(耕作地の単位面積あたりの年貢徴収量)
 設定し、年貢の増徴が図られたのです。

 例えば有名な宇治の茶畑については、上田(いちばん生産量の多い田地で、それに応じて斗代も高い)の2倍近い斗代が設定
 されていました。

 それから17世紀前半の畿内幕領では、さかんな綿作地について、逆に田地の稲作より年貢率は低く、さらに稲作には認められて
 いなかった肥料代控除も認められていたそうです。つまり、この綿作に関しては、むしろ幕府の方が積極的に奨励していた、という
 ことになります。

 なお「勝手作」の文言は近世前期には見られず、享保18年(1733)に初めて見られるそうです。しかもその内容は、「田地に商品作
 物を作るのは「勝手作」だから、今後その部分の年貢は、その年の村の最上級年貢率を適用する」というもので、「勝手作」を公認
 しつつ、年貢増徴の目的がありました。
 どうも「勝手」という文言のもつイメージが一人歩きして、「勝手→禁止」という理解に結びつけてしまったようです。

 ※本城正徳「「田畑勝手作の禁」の再検証」(『歴史と地理』690、2015年)