土器という記憶媒体
縄文には、撚紐(よりひも)を押しつけて施文する押圧(おうあつ)縄文土器と、回転さ
せながら文様をつける回転縄文土器が存在し、やがて回転縄文が主流になっていく。
回転が運動であり、時間の経過を表現することが意識されているなら、当然のことだ
ろう。輪積み法もそうだが、こういった思想が土器に反映されることにより、土器製作
過程を学べば、必然的に継承されていく。いわば土器と製作過程そのものが記憶媒
体であり、しかも縄文時代のほぼ1万年という長期にわたり間断なく継続する。これが
わかれば、古事記が旧石器時代の終わりごろ、すなわち土器が出現する直前からは
じまるのは、むしろ当然のことでしかない。歴史学者や考古学者は、文字がないとい
う理由だけで、縄文時代を甘く見ている。
古墳時代に官制色の強い土師器(はじき)がつくられるようになり、天武天皇の時代
になると官製の律令式土器様式が主流になる。東北北部・北海道の擦文(さつもん)
文化、沖縄の貝塚文化を除けば、統一されるようになる。以降、土器を文化の指標と
することができなくなる。別のいい方をすれば、記憶媒体を奪うことによって過去を切
断し、あたらしい日本人に統合させていく。その一方で、写経させて文字が普及するよ
うに働きかけるのである。その総仕上げをおこなったと考えていい。
こういったことがわからないのは、研究者が専門化し、対象の年代が分断されてい
ることがある。考古学者でも、旧石器時代と縄文時代では、研究者が違う。まるで官僚
の如く、領分を侵さない侵させない、である。こういった縄張り意識と、記紀は何の関
係もない。文献学だけで古事記を分析できるなどといった考え方は、思い上がりにす
ぎない。
もどろう。
ふつう縄文などの文様は表面につけることが多いが、内側にも施す土器がある。表
裏(ひょうり)縄文土器といい、回転縄文に含める説と、わける場合がある。この表裏
縄文土器は、押型文系土器群や撚糸文系土器群に先行するとき、すなわち隆起線文
土器文化期では、回転縄文に含まれるとされる。
内側に施文するのは、表面と裏面が意識されたときであることは間違いない。表の
世界と裏の世界の関係であり、世界が北極星に向かって収束していくなら、その先が
どうなるのかという問題意識が起きても不思議ではないだろう。両面に縄文を施すの
は、向こうでもおなじと考えられていることを示す。

もともと土器は盟神探湯(くかたち)から発展したものであり、土器の内側が重要な役
割をもっている。ところが、施文するのは冠から発展したものであり、外側に施す。当
時の日本人がどちらを表と考えていたのかはっきりとはわからない。この疑問へのヒン
トになりそうなのが、前出の注口付(ちゅうこうつき)深鉢だろう。

(土器の造形 21p 東京国立博物館)
注ぎ口は、内側の液体を外に流し出すものであり、内側から外に向かっての運動が
意識されていることが伺える。おそらく、内容物をぐるぐると、かき混ぜたあと注いだの
だろう。ただ、その先に器があったかどうかわからない。小皿のような土器は、この時
期にはまだ出現しておらず、流れ出る液体を手で受けとめた可能性がある。この点で
は、実用品ではなく、世界観を再確認するための祭儀につかわれた道具だったように
思われる。
もっとも、聖俗が分離していないから、生活のすべてが祭儀といっても過言ではなく、
信仰そのものが直接的に行動様式を決定する。だからこそ、当時どのような信仰をも
っていたかわかれば、どのように行動するのかも、大まかに推測することができる。予
測もできる。
前隆起線文土器文化期のはじめに、棒をつかって窩文していたことを説明したが、
注口はこの系譜にある。棒をつかって貫通穴をつくる。太陽が通り抜ける大地のトン
ネルが世界観に反映されて、北極星の穴に向かって流れていく、収束していく。ただし
これは時間の観念であり、空間的にはあまり変化はなかったようだ。なぜなら、墓に埋
める行為は、引きつづき継承されていくからである。
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