尖底土器と装飾
縄文時代の埋葬法は、ほぼ全期間をとおして、手足を折り曲げた屈葬(くっそう)でお
こなわれる。葬儀は生死観に関わる問題だが、いつごろ始まったのか正確にはわか
らない。ただ、手足を折り曲げるのは、出産直後の乳児とおなじ形態を模倣している
ことを意味する。死と再生ということであり、屈葬は再生のための準備であり、また、太
陽とおなじように丸くなることでもある。墓に赤いベンガラを振りかけるのは、夕焼けが
赤いことを模倣することに他ならない。

ここを起点にすれば、北極星の発見により変質した世界観に、再生のプロセスが要
請されるようになることは当然かも知れない。世界はぐるぐる回りながら、一点に収束
していく。世界の死であり、それで終わりでは、誰でも困ってしまう。
3. 尖底土器文化期
前述のように、この時期は関東の撚糸文(よりいともん)土器と西日本の押型文(お
しがたもん)土器に大別できる。
撚糸文土器は多縄文系土器群の手法を継承しながら成立したもので、井草(いぐさ)
式・夏島(なつしま)式などといったように地域性が明瞭にでてくる。人口が増え、密度
が高くなっていることが伺える。もうひとつは定住化の動きがはじまっていて、社会が
安定化することにも要因がある。それらが地域性という形で表出したものと、読むこと
ができよう。
濃密な土器分布と土器形式の変遷が明瞭に読みとれることで、東京湾を中心に東
北地方や中部地方まで広がっていくことがわかっている。また、撚糸文土器の後半
期、稲荷台(いなりだい)式ごろになると竪穴式住居が普及し、東関東に限定されるが
土偶が出現したりもする。ところが、東北に分布していた貝殻沈線文(かいがらちんせ
んもん)土器の影響を受けて、沈線文土器に移行してしまい、撚糸文土器は消滅す
る。三戸・田戸式と呼ばれるもので、以降は、関東から北海道までの沈線文と、関東
から九州(南九州を除く)までの押型文に分かれる。
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一方の押型文土器は、撚糸文土器に後発し、近畿に成立する。成立過程について
ははっきりしないが、前半期にネガティブな押型文≠もつ大鼻・大川・神宮寺式の
発生が関係したことが指摘されている。
このネガティブという考え方だが、すぐに双極の構造になっていることが理解できよ
う。押型文と、ネガティブな押型文、の関係であり、前隆起線文土器文化期で説明した
窩文と豆粒文の関係とおなじである。窩文(凹)を主眼にするなら、豆粒文(凸)はネ
ガティブな窩文≠ナあり、豆粒文に足を置くなら、窩文がネガティブな豆粒文≠ニい
うことになる。
また前半期には、竪穴住居や竪穴炉も登場し、土偶も出現する。この土偶は、撚糸
文土器文化圏のものとは系統が異なるとされているが、はっきりしたことはわからない。
もうひとつ。押型文の成立には、撚糸文土器が関わっていることも指摘されている。
関東の撚糸文土器が関西に影響を与えて押型文土器を成立させる。つぎに東北で押
型文土器が盛行して、貝殻沈線文土器が成立する。そして前述のように関東で撚糸
文が、沈線文にとって変わられる。そういうプロセスがある。

つまり、関東の撚糸文が太平洋ルートを通って関西に運ばれ、関西の押型文が日
本海ルートを通って東北に運ばれ、東北の沈線文が太平洋ルートで関東に運ばれる
ということである。このことは背後に舟による文化的な交流が成立していることを暗示
する。
もうひとつは、対岸と文化的な交流がある、ということであり、北海道南部と東北北
部、瀬戸内海を中心にした近畿・中国・四国・九州中北部は文化を共有している。この
ことは舟による文化交流があることを裏書きする。
要するに、舟による移動距離が小さいと文化的な情報が共有され、すぐに同一文化
圏に組み込まれるが、遠距離だと情報の移動に時間差が生じて、文化的な様相に違
いを生みだす。考古学的史料では、マクロな情報しか得られないということでもあり、
数年ないし数十年といった精密な情報は、これからの研究課題だともいえるだろう。
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