貝塚と丸木舟
尖底土器文化期になると、○○岩陰遺跡や○○洞窟遺跡の名称をもつものの他に
○○貝塚という名称が付与されたものがでてくる。貝を食料とし、普及するようになる
のは、この時期に入ってからと考えていい。それと同時に家の遺跡がぽつぽつ発見さ
れるようにもなってくる。
前述のように、北極星という動かない中心点の発見は、行動様式に変化をもたらす
ようになる。遊動と移動の生活を双方がしていると、交易がおこなわれるのは、偶然に
出会ったときに限られる。偶然の出会いは双方に緊張をもたらし、時によっては小規
模の衝突がおきたこともあったろう。この緊張をやわらげるのが、双方の贈り物であ
り、互いにないものを交換するということではない。定住するようになってくると、互いに
顔見知りになるようになっていき、交易がだんだん安定化する。文化圏が成立するよう
になる根本原因は定住化にあると見ていい。
貝塚の出現も、この思想が背後にある。
旧石器時代の狩猟対象はマンモスやナウマン象、オオツノジカであり移動する動物
だった。絶滅したあとはイノシシやシカが主体になり、旧石器時代の終わりごろに、サ
ケやマスを捕獲するようになる。サケは生まれた川に回帰するが、いずれにしろ動的
な存在であり運動する。ところが貝は移動しない。まったく移動しないわけではないが
比較すれば静的だといえるだろう。運動と静止の構造のなかで貝が再発見される。
もうひとつは自然環境の変化が関係しているものと思われる。縄文時代に海水面が
上昇し、日本海に暖流が流れ込むようになって日本は森林の国に生まれ変わる。この
ときに大量の植物遺体、すなわちゴミが流れ着くようになる。瀬戸内に海水が流れ込
み、ひとつだった本州・四国・九州は分断される。
これが日本に奇妙な景観を生みだす。
上高地にある大正池を知っているだろうか。焼岳の噴火によって川がせき止めら
れ池になったもので、立ち枯れの白い樹木が並ぶ。海水面が上昇すれば、林が海の
なかに沈む。波の強いところでは洗い流されるが、波の静かな入り海では、大きな樹
木は残る。もちろん海水が流れ込めば、木は立ち枯れを起こす。とはいうものの、海
のなかに林がある、そんな風景を見たことがあるだろうか。
しかも海水面より下の部分には貝がびっしりと張り付く。これが干潮のときに露わに
なる。これが第1段階で、つぎに海水面のところで木が折れる。これは水に浸かったり
露出したりすることで、膨張と収縮を繰り返すからで、ここがもっとも脆(もろ)くなる。貝
が張り付いたところは守られ残るようになる。海に貝養殖をするための棒が林立して
いるような風景。そういった世界を彼らは見ていた。ここでも、また棒が重要な役割を
している。
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文化圏の成立に丸木舟も関与している。
ハードウェアとしての日本人には、相当量の南方系の血が混じっているが、旧石器
時代の人の移動は北海道ルートあるいは朝鮮半島からと理解して問題ない。暖流が
日本海に流れ込むようになるのは、東南アジアからの海上ルートの存在を暗示する。
フィリピン沖で黒潮にのれば日本まで流れ着く。もちろん人はゴミとは違い、水や食料
を必要とするから、島伝いに移動することになる。

(縄文時代研究事典 172p 戸沢充編 東京堂出版)
最古の丸木舟の出土は福井県鳥浜貝塚からのもので、時代区分としてはつぎの立
体装飾文化期(早期に相当)になる。しかし、丸木舟をつくったと考えられている丸ノミ
型石斧の登場は、隆起線文土器文化期に遡る。

(発掘 上野原遺跡 48p 南日本新聞社)
写真は鹿児島県栫ノ原(かこいのはら)遺跡(1万1000年前)から出土したものだ
が、一般的な石斧の刃先とは異なり、湾曲していて、えぐり取るようにして使用する。
丸木舟は適した木材のかたまりを焼いて加工したと考えられている。この丸ノミ型石斧
は、南方系のシャコガイ製石斧の系譜にあるものと推定されているが、はっきり断定
することはできない。かなり形状が異なるからである。ただ、フィリピン・沖縄・南九州・
伊豆諸島・小笠原諸島・マリアナ諸島などに円筒石斧は分布していて、その点では間
違いなく関連がある。
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