尖底土器と上野原遺跡
ところが、尖底土器文化期の鹿児島県上野原遺跡では、双極文様を彫った耳飾り
が出土している。約7500年前とされ、尖底土器文化期(前期に相当、約9000年前

(発掘 上野原遺跡 41p 南日本新聞社)
〜7000年前)の後半期になる。上野原遺跡では、異形石器も見つかっており、相当
に緊張感が高まったようだ。
鏃(やじり)の異形石器は、だいたい対人用であり、通常の鏃に加工を施す場合が多
い。人間は動物と違い、ささった矢を手で抜き取ることができる。トリカブトをつかった
毒矢も、あまり効果はない。とはいうものの、弥生時代の鏃とは違い、大型化していな
い。弥生時代の鏃は、殺人用だからである。最初から、それを目的にする。ところが異
形石器の場合、相手を出血させ、追い払えればいいのであって、殺人を目的にしてい
ない。もちろん、当たり所が悪ければ死ぬこともあるが、それは例外とみていい。
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列島中が尖底土器をつくっていたころ、南九州では、伝統を継承した平底の石坂(い
しざか)式土器が成立する。
世界構造を器形に反映させるのはいいが、田戸下層式土器のように極端になれば
使い勝手が悪くなるのは当然だろう。これを耳飾りのような装飾などに反映させれば、
別に土器が尖底である必要はない。
別のいい方をすれば、南九州では、土器に世界構造などの思想が反映されていな
いので、どのようにして成立したのかプロセスを明らかにすることができない。服や化
粧などに反映されると遺物として残る可能性は極端に低くなり、唐突に登場する感じは
否めない。極端な場合を想定すれば、外部から持ち込まれた可能性もあり得る。ただ
し、そのプロセスもあきらかではなく、ここでは自己到達したものとして考察する。
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尖底土器と石坂式の対立は、いくつかの示唆を与えてくれる。
氷河期が終わって温暖化するとともに、日本は列島になり、植生が変化する。針葉
樹林帯から照葉樹林・落葉広葉樹林帯に変化する。この変化は、あたたかい南で、い
ち早く起きるはずである。やがて桜の開花前線と同じように、日本列島を北上してい
くことになる。
旧石器時代の終わりごろ、鹿児島や種子島では、すでに広葉樹林が出現する。自然
のなかで生活する人間は、この変化に対応せざるを得ない。縄文文化を照葉樹林・落
葉広葉樹林帯の文化と定義するなら、南から北の大まかな基調が存在するのは、不
思議でも何でもない。植生が変化し安定するまでは、南九州を先進地域と考えていい。
上野原遺跡では、ドングリなどのナッツ類を粉に加工するための石皿と磨石(すりい
し)が出土している。日本人は、なぜドングリやトチノミ、クリを食べるようになったのだ
ろうか。

もはや説明不要だろう。タケノコや巻き貝のように、砲弾のような丸い形をしているか
らである。土器の器形とおなじといってもいい。ちなみにドングリやトチノミはひとつで実
がなるが、クリはだいたい2個あるいは3個で、全体として丸いが変形する。ふたつの
場合は半円になり、三つのときは、真ん中が平べったい形になる。これは1と2の組み
合わせでもある。天武天皇(古人大兄皇子)と天智天皇(中大兄皇子)の三つ栗(ぐり)
の話は、この思想を踏まえたものと解釈できる。
ついでにいえばツクシは棒であり、ゼンマイ・ワラビの若芽は渦巻きだからである。
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上野原遺跡では薫製(くんせい)などをつくったとされる連穴土抗(約9500年前)
が、見つかっている。

(同上 13p)
これ自体は太陽の軌跡を模倣したものだが、

大きな竪穴ふたつと、小さな貫通穴の組み合わせになっていることに注意してもらいた
い。これに世界の多重性の発見が加われば、死後の世界が確立されても不思議では
ないだろう。つまり、別のプロセスによっても成立する可能性があるということに他なら
ない。南九州では、空間の多重性の方があたらしい発見であり、より重要なのである。
だから、尖底土器をつくらない。
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