御幣と装身具
見られるといっても、この時代では神の擬人化がおきていないから、人間の囚人化
はおきない。もうひとつ、原因として考えられるのは、社会が部族集団化することによ
り、会合が頻繁におこなわれるようになったことがあげられる。一種の差別化だが、身
なりを整えたり、装身具をつけたりすることで、部族内で指導的役割を果たすことが求
められるようになったのだろう。
縄文時代初頭のシャーマンは、頭に石製円盤などの装飾をつけていた。これがどの
ように発展していったのか知ることはできない。できないが、ある程度の推測は可能で
ある。アイヌのサパンペ(冠)には、後部にイナウと呼ばれる飾りがつけられる。これは
ヤナギやミズキを刃物で薄く削ったもので、いわゆる削りかけ≠ニ呼ばれる。

木を薄く削ると、くるくると巻きがでる。この構造が、葦牙(あしかび)とおなじになる。

おそらく植物を加工して縄のように編み、ところどころに削りかけをつけたものだった
ろう。注連縄(しめなわ)に近いものだが、イネがないから、ヤナギとかニワトコなどを
材料としていたようだ。これは削掛(けずりかけ、はな・ほだれとも)として、アイヌのイ

日本の古典 89p 集英社
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アイヌ語辞典 萱野茂著
352p 三省堂
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ナウの他、石川県や埼玉県などでも残っていて、その材料を想定したものだが。削掛
の形状は、棒の先端に刃物で削りだすもので、神官が祓(はら)えのときに左右に振
る幣(ぬさ)に似ている。現代の幣は白い紙でつくられていて、紙を大量につくる方法
は、聖徳太子の時代に伝えられる。紙以前を想定するなら、アイヌのイナウとおなじも
のがふさわしいだろう。削掛の方は、小正月(正月十五日)に神仏に供える。その意味
では幣とは違うが、いずれにしろ削掛もイナウも、棒と螺旋状の飾りをもつことではお
なじであり、思想的な背景はすでに存在する。この時期に登場しても不思議ではない。
もうひとつ気になるのは、アイヌのイナウには上下を意識して二段の削りかけをもつ
ものがある。図では左端だが、石川県の輪島にも、同様に二段になっている削掛があ
り、現在では失われてしまったが、広範囲に分布していたものと考えられる。これも思
想的なものは存在する。
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ここを起点にすれば、木串を複数集めた堅櫛(たてぐし)が登場する前に、小さな削
掛を髪にさしていた可能性はある。櫛というより簪(かんざし)、あるいはヘアピンに近

(縄文時代の装身具 土肥孝著 16p 至文堂)
いかも知れない。福井県鳥浜貝塚から見つかった木製の櫛は、上部にU字型の装飾
をもつが、おそらく双極文様のバリエーションのひとつと考えられる。この櫛の歯は、根
元から折れている一本を含め、全部で9本ある。髪をすくためにつけられているので
はなく、むしろ高く掲げる役割をもっているものと推定する。髪をすくのなら横櫛(よこぐ
し)の方が利便性が高い。土器の足とおなじ役割だろう。
全体としてはシカの頭部を模してあり、前述のフクロウとおなじように、シカが双極を
もつものとして再評価されているようだ。考えようによっては、双極文様でもなければ、
シカでもないような、奇妙な形状であり、判断しづらいところがある。
いままでみてきたように土器の器形や装飾は一定の法則をもち、勝手気ままにつくら
れたものではない。それは土器が、家族ないし部族という集団のなかで共有されるべ
きものであり、集団内での公共性をもっている、という性格による。ところが装飾品にな
ると公共性をもちつつ、最終的に個人の判断、個人の趣味という色調が強くでてくる。
その結果、普遍なのか、特殊なのかがわからない、という問題を残す。あとは分布か
らの判断で、多地域にまたがって存在するなら普遍性があると理解すべきだが、一遺
跡のみの出土品であっても思想的背景があれば、ある程度の普遍性をもっていると了
解すべきだろう。
そういった視点からみれば、鳥浜貝塚の堅櫛は、櫛としての普遍性をもちつつ、装飾
としては特殊な事例と考えられるが、どうだろうか。
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尖底土器文化終末期ごろから前期初頭にかけて、石製の(快−小+王)状耳飾(け
つじょうみみかざり、以降ケツ状耳飾で代用)が登場する。ケツ状耳飾は蛇紋岩(じゃ

(同上 9p)
もんがん)や滑石(かっせき)などを素材とし、扁平に加工する。前期に東日本に盛行
し、やがて中期になると西日本でも見られるようになる。

耳飾り自体は上野原遺跡でもみられたものだが、腕輪や首飾りなどとは違って人体
を加工する。耳たぶに穴をあけないと取りつけることができない。
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