比較文化史の試み 282


  部族社会と耕作

  ちなみに、抜歯は後期旧石器時代の港川人にあったとされるが、事故による欠損の
 可能性もあり、断言できない。少なくとも部族集団と、それを区別する必要が生じるの
 は前期以降と考えてよく、思想的背景はない。抜歯がもっとも行するのは、立体装
 飾文化期(縄文後期に相当)から弥生時代前期にかけてであり、抜歯を基準にする
 と、縄文と弥生時代のあいだにあるはずの断絶というのは存在しない。連続している。

  人類学者のレウェレンはバンド社会と部族社会の違いのひとつとして、部族社会で
 は通過儀礼やイニシエーション(入社式)を重視することをあげている。年長組などの
 社会組織に入るためには、肉体的な苦痛に耐えたり、恐怖を克服する儀礼などを経
 験させることは、よく知られている。これらは、かなり整備されたものであり、部族社会
 が成立した時点で、完成されていたとは考えにくい。徐々につくられていったと理解す
 るのが順当だろう。

  耳飾の登場は、この先駆けとなるべきものだろう。ただし、これが他の部族社会でも
 同様だったかどうかは、わからない。あくまでも、日本の古代においては、である。もと
 もと環状集落の形成が、木を伐採し、森を焼き払い、さらに整地してできるものであ
 り、徹底的に自然を加工する。このことと身体変工とは、密接な関連がある。人間の身
 体と世界を同一視、あるいは反映させることは、ふつうにおこなわれていた。たとえ
 ば、鏃(やじり、矢の尻)≠竍山の背(山の尾根)≠ネどなどである。身体の名称
 が先にできて、それを景観などに反映させる。

  前述のレウェレンは、バンド社会と部族社会での生業の違いも比較している。曰く、
 バンド社会は狩猟採集を主な生業として、家畜や栽培はないとする。あったとしても、
 小規模だという。一方、部族社会では粗放的農耕と牧畜をあげている。類型がそのま
 ま日本に該当するかどうかは即断できないが、ある程度の示唆を与えてくれる。

  まず、尖底土器文化期までは、定住していないから農耕をしていても、あまり効果が
 ないだろうと考えられる。収穫物の保管場所の問題があるし、そもそも遊動していれば
 身につけられる程度の量が限界となる。この意味で、前期になり集落が形成されるよ
 うになると、粗放的農耕あるいは植物栽培の効果がでてくる。

  日本の農耕は、一般的に焼畑・畑作から水田稲作へと移行したと考えられている。
 農耕儀礼としての年初行事において、餅すなわちイネ科の植物ではなく、畑作物を儀
 礼食する例が、わずかだがある。これは畑作農耕文化から稲作農耕文化への移行が
 地域によって異なり、畑作農耕文化が残存した結果だと推定できる。

  もうひとつ重要な点は、水田稲作の農耕儀礼は、集落単位でおこなわれる祭りであ
 るのに対し、旧暦八月の十五夜におこなわれる芋名月(いもめいげつ)や、おなじく九
 月の十三夜の豆名月(まめめいげつ)は、家族単位が基本であり、集落主催ではおこ
 なわれない。このことは儀礼の対象植物が異なるだけでなく、社会的な対象集団が異
 なることを意味する。水田稲作においては、集落単位の結合を必要としたということで
 あり、結合させるために農耕儀礼を必要とするということでもある。社会学的にきわめ
 て重要な問題であり、これなくしては国家統一はあり得ない。

  また、焼畑農耕民は部族社会を形成し、自給自足的な生活をすることが多いことも
 特徴のひとつとしてあげられる。逆にいうと、前期では部族社会が成立するから、日本
 でも焼畑をやりはじめた可能性がある。あるが、結論をあせらず、もう少し考察をつづ
 けよう。

  文化人類学では、耕作をいくつかに分類している。

 @ 掘棒(ほりぼう)耕作

  掘棒をおもな農具とし、芋類や果実の栽培をおこなう。労働主体は女性である。

 A 耨耕(じょくこう)作

  鍬(くわ)で耕作をおこなう。男性に重点が移行。

 B 犂耕(りこう)作

  牛馬に引かせた犂(すき)によって耕す。家畜が重要な労働力となる。

  日本で牛馬によって耕すようになるのは基本的にあたらしい。弥生期では、そもそも
 牛馬が少ない上に、馬は祭祀の対象でもある。耨耕作であったと了解できよう。この
 分類法では、耨耕作以前に掘棒耕作があったかどうかが問題となる。それと同時に、
 この分類法は農具によって区別されていることがわかる。

  これとは別に、生業パターンにより、@狩猟採集、A牧畜(遊牧を含む)、B鍬(くわ)
 農耕、C犁(すき)農耕に分類することがある。

  鍬農耕は、掘棒から発展した鍬をつかうとされる。また、犁のつかいにくい山地や森
 林地帯に多く、焼畑耕作や転換耕作と呼ばれる方法がつかわれる。これはおなじ土地
 で連作すると地力が落ちるためで、数年経つと別の場所で耕作する。鍬農耕民は、農
 耕と平行に、ブタやニワトリの飼育をおこない、さらに狩りや漁撈によって食料を補うと
 いう雑多な生業様式をもつ。さらに、草木を焼き払って開墾するのは男性の役割であ
 り、種をまき世話をするのは女性が担当することも報告される。

  一方の犁農耕は、家畜をつかって耕すことは前述の通りだが、一定の順序で作物の
 種類を変える輪作(りんさく)や、揚水装置をつかった灌漑、家畜をつかった施肥や収
 穫物の運搬などがシステム化された状態をいう。

  当然に、掘棒をつかった耕作は、生業パターンの分類から抜け落ちる。さらに焼畑
 での民俗例では、鍬ではなく掘棒のケースがいくつか報告されている。類型には、長所
 もあれば欠点もある。一種の理想型(モデル)であり、類型は絶対ではない、ということ
 を了解しておく必要があるだろう。

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考古学からみた古代 (縄文時代編) その56


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最終更新日2007年7月30日