比較文化史の試み 283


  遊動と焼畑

  焼畑は、山の斜面などに火をつけて焼く。つぎに棒をつかって穴をあけ、そこに種を
 蒔いて、上から土をかける。あとは収穫する時期までまつ。それだけといえば、それだ
 けのプロセスである。誰でも考えつきそうに思えるが、そうではないらしい。

  焼畑には、いくつかの要素がある。まず、土に穴をあけるという考え方は、前隆起線
 文土器文化期には登場する。土に棒を刺して穴をつくり、つぎに抜き取る。これは尖底

 土器文化期の石皿に堅果類を置いて磨石(すりいし)でコツコツと叩く上下運動とおな
 じでもある。棒は祭祀対象として扱われるようになる。だから、田を返す、耕すとは違い
 土をひっくり返したりしない。土に穴を開けるだけである。

  ここに種を入れる。穴は遺体を入れる場所であり、穴から帰ってくるのが仮の死(睡
 眠)であり、戻ってこないのが死に他ならない。おそらく、この思想が関係している。種
 子は仮の死のなかにいるものであり、春になると、やがて芽をだして成長する。堅果類
 を食品として扱うようになると、このことを発見するのに時間を要さないだろう。穴に種
 を入れるのは、仮の死の思想を保証し強化する。

  もうひとつは性の発見が関係してくる。それは親と子の発見でもある。イチョウなどを
 除けば、植物は雌しべと雄しべをもつ雌雄同体でもあり、男性と女性という性差を発見
 すると不可思議なものに写ったろう。性がないのに子ができる。たぶん、このプロセス
 は逆で、種を子供として認識し、その結果、性の発見へと結びついていったのだろう。

  前出の鳥浜貝塚遺跡では、ヒョウタンの果皮や種のほかに、リョクトウ・シソ・エゴマ
 などの種子もみつかっている。ところがヒョウタンの野生種は、おもに亜熱帯地域と熱
 帯地域に分布しているものであり、日本には存在していない。交易によってもたらされ
 たものか、持ち込まれたものか判別できないが、渡来種であることは間違いない。つま
 り、ヒョウタンでは、自生していた野生種の自然利用を想定できない。この包含層は、
 尖底土器文化期(縄文早期に相当)から前期にかけてのものであり、そのころに意図
 的な栽培をはじめたと考えていい。

  定住していなくても遊動ならば、おなじところに回帰する。この時期を収穫期にあわ
 せれば、多少なりとも収穫はできる。秋におこなうサケの捕獲と似たような感覚だった
 のかも知れない。

  環状集落と焼畑を比較すれば、環状集落は世界構造の反映であり、より高度な理解
 と手続きを必要とする。環状集落が成立する前に焼畑が登場しているはずである。な
 ぜ、焼くようになったのかはっきりしないが、これは太陽と火が分離したことが関係して
 いる。野外炉が、土器をつくるときの野焼きと、家のなかの炉に分かれる。野焼きの延
 長線上に焼畑が成立したのだろう、と思われる。前述のように、食器が仮の死を転化
 させて生にする、という解釈ならば、火によって再生を促すという発想があっても不思
 議ではない。焼くことによって害虫を駆除したり、陽当たりがよくなったりすることもある
 が、どちらかといえば儀礼的な意味合いが強いものと想定できるだろう。

  もうひとつ、焼畑には重大な転換がある。

  焼畑農耕民は定住している。動と静という対比構造で捉えなおした場合、前段階で
 は人間が遊動し、栽培した場所に回帰する。人間が動で、植物が静である。焼畑にな
 ると人間が定住し、耕作地を移動させる。関係が逆転する。これは世界構造を反映さ
 せて環状集落をつくることと同様の反転現象である。家と丸木舟、敷地と焼畑が、女性
 と男性にそれぞれに振り分けられる。男性が焼畑をつくるのは移動するからであり、
 女性が植物の世話をするのは、動かない植物だからである。

  この不耕起栽培による作物には、陸稲(おかぼ)やアワ、ヒエ、ソバなどがあり、熊
 本や高知、愛媛、山形県などに昭和30年ごろまで伝わっていたが、現在ではほとんど
 消滅してしまったようだ。野尻湖の堆土の分析によると、栽培種のイネ科植物の花粉
 が縄文時代の後半ごろから出土するようになる。中央アジア原産のソバは、弥生時代
 末ごろに出現する。意外なことに、ソバよりコメの方が早かったらしい。すくなくとも、野
 尻湖湖畔では。

  芋名月(いもめいげつ)でつかわれるイモは里芋(サトイモ)であり、これは熱帯アジア
 やインド東部あたりを原産とする。祭りの対象から判断すれば、水田稲作以前に渡来
 したものらしい。サトイモは花があまりつかないし、実もならない。栽培方法は、球茎に
 ついた新球茎、つまり親いもに子いもや孫いもができ、これを分けることで増やす。播
 種(はしゅ)による栽培ではなく、株分けである。豆名月(まめめいげつ)の方は、大豆
 やクリがつかわれる。大豆もやはり中国を原産とする。

  鳥浜貝塚での栽培品のうち、ヒョウタンが外来種であるように、リョクトウ(緑豆)はイ
 ンド起源の植物であり、シソは中国原産、エゴマはインドや中国を原産地とする。これ
 らを偶然と考えるのは、不合理だろう。南から舟に乗って人が来るときに、移動中の食
 料として持ち込んだ可能性がある。里芋や大豆あるいは米(陸稲)が渡来した時期は
 それぞれ違うようだが、南方からの伝来というのが基調だろう。

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考古学からみた古代 (縄文時代編) その57


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最終更新日2007年7月31日