比較文化史の試み 292


  土偶と大木式

  おそらく最初は、先祖祭祀との複合で階級制を確立したのだろうが、先祖祭祀のま
 までは絶対性が存在しないから、やがて誰もがなり得るという論法が成り立つ。誰もが
 首長を自認すれば、もはや首長の優位性は失われていく。その一方で、物は神でもあ
 るから、物が宝物になりつつ、先祖祭祀からウエイトが移行していくというプロセスなの
 だろう。

  いずれにしろ、この首長制類似の政治体制が確立することによって、北海道南西部
 は一気に最先端に躍り出る。あとの者先にならん、である。尖底土器文化期におい
 て、まず関東に撚糸文土器が誕生する。この影響を受けて近畿に押型文土器が成立
 し、波及して貝殻沈線文土器が東北に誕生する。さらに、関東では影響を受けて沈線
 文に移行するというプロセスを経ており、その意味で貝殻沈線文土器が登場した時点
 で、関東がもっとも遅れているといっていい。

  中期の関東において、いわゆる縄文文化が高度に発達をみせながら、首長制の確
 立という観点で見れば、東日本で、もっとも遅れた地域が関東なのである。最高であり
 ながら、同時に最低でもある。ある種の文化を形成し確立するプロセスで有効な文化
 要素がそのまま、停滞をもたらすという皮肉な結果を生じる。

  縄文文化の基調ともいうべき照葉樹林に対応したのは、南九州が早い。早いが、照
 葉樹林文化が列島に広がることによって、別段めずらしいものではなくなっていく。こ
 の照葉樹林文化は高度に発展したものであり、それ以上の内部発展の契機を失って

 しまう。ところが他の地域にとっては、あたらしい文化要素の登場であり、これと伝統的
 な文化が融合し、爆発的な展開がおきる。文化の問題を論じる際に落としてはならな
 い、ひとつの視点だろう。

  前述の上野原遺跡で出現するより早く、千葉県の庚塚遺跡や木の根遺跡で板状の
 土偶がつくられるようになる。もっとも古い段階の土偶であり、尖底土器文化期の前半
 ごろのものと推定されている。

(日本の美術2 土偶 原田昌幸著 2p 至文堂)

  ほぼ同時期に、東海や近畿でも土偶がつくられるようになっているが、それぞれ形状
 が異なり、成立の要因が多少異なるように思われる。乳房を表現したものが多く、これ
 が性の発見へとつながっていくようだ。関東での出土例では、三角形を基本とする。

(同上)

  前期に当該する茨城県前谷西遺跡の出土例では、V字状の隆帯がつけられるよう
 になるとともに大の字の形に変化する。V字状の隆帯は、組み合わせの羽状縄文の
 上半分だけを抜きだしたもののようだ。どうも、この時点で首飾りが重要な意味をもっ
 て認識されたようだ。胸元を飾るというのではなしに、つり下げることによってV字状に
 なり、それが右と左の傾斜をもたらし、世界構造を表現する。

(同上)

  おなじ時期の宮城県糠塚では、三個の穴と、一対の穴をもつ土偶もみつかっている。

  前出の大木式では、3と2を組み合わせた装飾があり、この思想が、この時期の土
 偶の形状を決定している。

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考古学からみた古代 (縄文時代編) その66


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最終更新日2007年8月12日