土偶と大木式
おそらく最初は、先祖祭祀との複合で階級制を確立したのだろうが、先祖祭祀のま
までは絶対性が存在しないから、やがて誰もがなり得るという論法が成り立つ。誰もが
首長を自認すれば、もはや首長の優位性は失われていく。その一方で、物は神でもあ
るから、物が宝物になりつつ、先祖祭祀からウエイトが移行していくというプロセスなの
だろう。
いずれにしろ、この首長制類似の政治体制が確立することによって、北海道南西部
は一気に最先端に躍り出る。あとの者先にならん、である。尖底土器文化期におい
て、まず関東に撚糸文土器が誕生する。この影響を受けて近畿に押型文土器が成立
し、波及して貝殻沈線文土器が東北に誕生する。さらに、関東では影響を受けて沈線
文に移行するというプロセスを経ており、その意味で貝殻沈線文土器が登場した時点
で、関東がもっとも遅れているといっていい。

中期の関東において、いわゆる縄文文化が高度に発達をみせながら、首長制の確
立という観点で見れば、東日本で、もっとも遅れた地域が関東なのである。最高であり
ながら、同時に最低でもある。ある種の文化を形成し確立するプロセスで有効な文化
要素がそのまま、停滞をもたらすという皮肉な結果を生じる。
縄文文化の基調ともいうべき照葉樹林に対応したのは、南九州が早い。早いが、照
葉樹林文化が列島に広がることによって、別段めずらしいものではなくなっていく。こ
の照葉樹林文化は高度に発展したものであり、それ以上の内部発展の契機を失って

しまう。ところが他の地域にとっては、あたらしい文化要素の登場であり、これと伝統的
な文化が融合し、爆発的な展開がおきる。文化の問題を論じる際に落としてはならな
い、ひとつの視点だろう。
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前述の上野原遺跡で出現するより早く、千葉県の庚塚遺跡や木の根遺跡で板状の
土偶がつくられるようになる。もっとも古い段階の土偶であり、尖底土器文化期の前半
ごろのものと推定されている。

(日本の美術2 土偶 原田昌幸著 2p 至文堂)
ほぼ同時期に、東海や近畿でも土偶がつくられるようになっているが、それぞれ形状
が異なり、成立の要因が多少異なるように思われる。乳房を表現したものが多く、これ
が性の発見へとつながっていくようだ。関東での出土例では、三角形を基本とする。

(同上)
前期に当該する茨城県前谷西遺跡の出土例では、V字状の隆帯がつけられるよう
になるとともに大の字の形に変化する。V字状の隆帯は、組み合わせの羽状縄文の
上半分だけを抜きだしたもののようだ。どうも、この時点で首飾りが重要な意味をもっ
て認識されたようだ。胸元を飾るというのではなしに、つり下げることによってV字状に
なり、それが右と左の傾斜をもたらし、世界構造を表現する。

(同上)
おなじ時期の宮城県糠塚では、三個の穴と、一対の穴をもつ土偶もみつかっている。

前出の大木式では、3と2を組み合わせた装飾があり、この思想が、この時期の土
偶の形状を決定している。
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