比較文化史の試み 318


  畑作農耕・黒色磨研土器

  この直前に、大気都比売神(おおげつひめのかみ)の話があり、須佐之男命は食物
 を求める。ところが大気都比売神は、鼻や口、尻から食べ物を出す。怒った須佐之男
 命は大宜津比売神(ママ)を殺してしまう。すると頭から蚕、ふたつの目に稲種(いな
 だね)≠ェ生まれ、ふたつの耳に粟がなり、鼻に小豆、陰(ほと)に麦、尻に大豆が生
 じたという。

  かれ、ここに神産巣日神(かむむすひのかみ)の御祖命(みおやのみこと)、これを
 取らしめて種と成したまひき。

(古事記上 次田真幸訳 95p 講談社学術文庫)

  神産巣日神が五穀の種としたという。神産巣日神は石のことであり、石と種子とい
 う、これまた奇妙な組み合わせに思える。しかし、神産巣日神を石斧の鍬と解釈すれ
 ば納得できる話ではある。

  ちなみに、食べ物を出した大気都比売神と、殺された大宜津比売神の表記が異なる
 が、意図的な可能性もある。というのは、五穀を調理して食べ物をつくるから、五穀が
 生まれる前に、食べ物が出せるはずがなく、因果関係が逆転しているとしか思えな
 い。表記を分けることで注意を促しているのだろうが、大気都比売神と大宜津比売神
 の関係はよくわからない。アフリカなどの神話では、母と娘がおなじ名前をもつことが
 あり、話が混乱することはめずらしくない。これは現代的な地名が意味よりユニークで
 あることを優先することの裏返しであり、特定できる名前より意味が優先されるからで
 ある。

  いずれにしろ、後期末ごろに植物栽培から畑作農耕へと移行したと考えられる。

  弥生時代になると、青銅器祭祀は近畿までで停滞する一方、稲作は急速に広まり、
 青森県でも水田がつくられるようになる。ところが、これは狩猟採集民が水田稲作を急
 にはじめたのではなく、もともと畑作農民だったから転換が可能なのである。畑作と水
 田では、灌漑用水が必要となるだけでなく、技術的にも高い。しかし、基本的には類似
 点が多い。

  ところが狩猟採集という生活様式から水田稲作に転換することは極めてむずかし
 い。伝統的な価値観と食い違いが大きいからである。アフリカなどで遊牧民を定住させ
 ようとして失敗するケースが続発しているのは、彼らの伝統を無視し、農業を強要する
 だけだからである。別のいい方をすれば、考古学者は縄文と弥生のあいだに断絶が
 あると仮定し、弥生時代は文明なのだから、文明の証拠たる農耕がここで始まるのは
 当然という予断をもったまま研究している。当然、文明の反対は野蛮だから、縄文=
 野蛮=わからない、理解できない、といった短絡的な思考をもつ。文明が野蛮に勝利
 したのだから、ごくはやい時期に水田稲作が東北まで広がったのは喜ばしい現象と理
 解され、おかしさ≠ノ気づかない。文明の定義を保留にしたままだが、これでは、い
 くら考古学史料を集めても、意味はないだろう。

  ちなみに、いままでそんなこと調べて何かの役に立つのか≠ニかそんなことを知
 って何の得があるのか≠ネどと尋ねられたことが何度かある。もちろん、いままで解決
 できない問題がわかるようになったのだから、大いに役立ってはいる。しかし、そうは
 答えない。さあ、ねえ≠ニ笑って誤魔化す。おそらく理由を説明してもわからないと思
 うし、私の問題でもないからである。

  実は、役に立つかどうかは、情報の側にあるのではなく、受け取り側にある。情報を
 役立てる≠ニは、その人、個人の問題だからである。このHPでつかっている情報
 は、すでに公開されてされていて、多くの人が知っていることでしかない。なにか特別
 な秘密情報を入手するルートをもっているのでもない。情報の入手法は、他の人とな
 んら変わらないだろう。問題は、そこではないからである。

  役に立つかどうかを尋ねる人間は、役に立たないことを、つぎつぎに発見する。あれ
 も役に立たない、これも役に立たない、みんな役に立たない。本人が、そうあることを
 望んでいるからである。この問題に気づかない限り、考古学史料は何も語りかけては
 来ないだろう。情報の世界が開かれることは、永遠にない。それが情報学を研究して
 わかったことのひとつである。

  もどろう。

  関東地方でミミズク土偶がつくられていたころ、東海や九州でも土偶が広まりはじめ
 る。これらの地域で共通することは、顔が極端な省略がなされていることで、一種異様
 な印象さえ与える。

熊本県竹ノ後遺跡出土

(日本の美術 土偶 35p 原田昌幸著 至文堂)

  また、黒色磨研土器が九州に広まっていく時期でもある。磨研土器はヘラなどをつか
 って磨かれた土器を指し、小型の壺や鉢などが対象となる。精製土器と粗製土器の一
 方に磨研土器、粗製土器のひとつに製塩土器をあげることができよう。いわゆる縄文
 土器は赤褐色を基調とするが、後期以降になると西日本で黒を強調する傾向がつよく
 なる。背後に、土に対する意識の変化を読みとることが可能だろう。

黒色磨研土器

(縄文時代研究事典 戸沢充則編 170p 東京堂出版)

  黒はもちろん山の神のシンボルカラーであり、上記の土偶は山の神を表現した神像
 であることがわかる。おもしろいことに、九州で独自の発展をとげた黒色磨研土器は、
 後期末に中部地方西部まで、波及するようになる。

  一方、東北では黒と赤の塗彩装飾がみられるようになる。赤は太陽神のシンボルカ
 ラーであり、東北では太陽神と山の神による並立祭祀がおこなわれている。これは後
 期でのミミズク土偶が示すように、関東から伝わったものと思われる。

  5 黒色磨研土器/亀ヶ岡式土器文化期

  いわゆる縄文晩期は亀ヶ岡式土器の成立をもって始まりとする。この事実をもって
 亀ヶ岡式土器、あるいは亀ヶ岡式土器群は特殊な事情をもっていることがわかる。亀
 ヶ岡式土器は、大洞(おおぼら)B式からA’式に細別され、標識名との乖離が存在す
 る。そもそも、ここに時代区分をおく必要があるのかわからないが、亀ヶ岡式土器群が
 日本考古学の発展に寄与したしたことは間違いなく、一般に定着してしまって、やめる
 にやめられないというのが実状だろう。

  写真は朱彩文が施された浅鉢で、黒の地に朱で雲形文を施していることがわかる。

青森県亀ヶ岡遺跡

(土器の造形 80p 東京国立博物館)

  これは植物の育成に、太陽神と山の神の両方が必要だということであり、伝統的な
 双極の価値観にも合う。

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考古学からみた古代 (縄文時代編) その92


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最終更新日2007年9月11日