貝輪・木製武器・指揮棒
一方、関東では亀ヶ岡式のような塗彩土器は出現しない。前述のようにミミズク土偶
で、太陽神と山の神の神像をつくっていたことは指摘した通りだが、これらの土偶が出
土する場所と時期には多少のズレが存在する。
(日本の美術 土偶 39p 原田昌幸著 至文堂)
右の埼玉県滝馬室遺跡の土偶は後期、左の群馬県千網谷戸の土偶は亀ヶ岡式土器
に該当する。どちらかといえば、太陽神信仰から山の神信仰に重点が移っていったよ
うである。だから、黒色磨研土器をつくる。いわゆる縄文の最終末期において、東北で
は亀ヶ岡式土器文化が隆盛を誇り、西日本では黒色磨研土器がつくられ弥生時代へ
の胎動がはじまる。この二大文化圏に挟まれた北陸・中部・関東は土器型式において
も細分化され、かつての勢いを失っている。
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東北でつくられた遮光器土偶は、各地にその影響を及ぼした。

(同上 63p)
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(同上 60p)
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左は静岡県上長尾遺跡、右は北海道輪西町からみつかったものだが、それぞれ遮
光器土偶の様式を継承していることがわかる。輪西町は室蘭にあるから、西南部とい
っていい。太陽神信仰は、その範囲に波及していると解釈できるだろう。
農耕をするには、種を残さなければならない。この考え方の背景には、世界が再生
を無条件には保証しないという深刻な問題提起がある。J字型の装飾は、人は死んで
帰らないことを端的に表現する。古事記で、伊邪那伎命が黄泉の国にいったまま帰れ
ないのは、死者の復活がないことを意味する。このことは、一定方向にしか流れないと
いうことであり、逆走することも、再生することもなければ、どこかに蓄積するようにな
るはずである。少なくとも魂の不滅を信じている限り。
後期末になると製塩するようになったことは前に述べたが、保存食料で塩分を取るこ
とができるなら、別に塩にこだわる必要はない。塩は、保存食料とは違い、腐らない。
この塩を交換財にすることによって、価値を残すことが可能となる。
貝輪(腕輪)は縄文人が好んだ装身具のひとつで、尖底土器文化期ごろには、すで
につかわれている。わずか一例だけではあるが、千葉県の古作貝塚では壺に入った
まま33点の貝輪が発掘された。貝輪は装身具だから、腕につけて人に見せないと意味

(日本の美術 縄文時代の装身具 12p 土肥孝著 至文堂)
がないだろう。このことは貝輪が単なる装身具から変容していることを示唆する。塩と
おなじように貝輪も潜在的な需要が存在する。そして貝輪も腐らない。だから、貨幣と
同様に価値を残すことができる。いわゆる商品貨幣であり、貝貨(ばいか)でもある。
ちなみに貝輪をつける文化があるのは関東を含む西日本であり、北海道西南部と東
北北部には玉類が集中するという分布の偏(かたよ)りがある。腐らないということでは
貝輪より確実だし、ずばり宝石だから価値は高い。ただし、絶対量が少なく、広域の経
済圏をつくるのには向いていない。
土が先祖の肉。さらに蓄積された肉としての土地という観念は、土地に対する執着
心を生みだすようになっていく。それは土地所有に発展する。首長制に移行すると土
地は高い方のリネージが所有するようになる。それと共に個人所有という考え方がうま
れる。蓄積と個人所有が結びついて、貝輪をためるようになったのだろう。一般的に、
首長制における首長は、つよいカリスマ性をもち、再分配についての決定権をもつよ
うになる。また、部族制の集約型労働を引き継ぎ、力の投下についての決定権をも掌
握するようになる。
黒色磨研土器/亀ヶ岡式土器文化期になると、祭祀色のつよいものだが、武器が
出現するようになる。すべて木製だが、先端を尖らせた槍、先端を平らに加工した矛、

(日本の人類遺跡 77p 東京大学出版会 一部改変 複数の遺跡)
弓矢は昔からの道具だが、殺傷能力はある。片口のような器は、石を入れてつかう投
石器だろう。あと武器になりそうなものは、石斧や棍棒といったところだろうか。いずれ
にしろ、専用の道具が出現しており、戦争の臭いがひたひたと近寄ってきている。た
だ、実戦につかわれたかというと、あまりなさそうな感じがする。ひとつは装飾が施され
ていて実用品ではなく、弥生時代の鏃(やじり)のような殺傷力の高いものができてい
ない、統合概念が存在しない、神に絶対性がない、などなど。おそらく、近隣と何らか
のトラブルが生じた場合のデモンストレーションにつかわれたのだろう。
土地が先祖の肉体として理解されるようになると、どこまでが所有の範囲なのかとい
う問題に帰結する。この範囲に近隣との重なりがなければ、土地所有による問題はお
きない。また、狩猟採集民における狩り場の問題とも異なってくる。狩り場は、土地で
はなく、土地でとれる獲物の問題であり、そもそも獲物が存在していなければ、狩り場
の問題は発生のしようがないからである。これが土地所有の問題になると一変する。
獲物がいようがいまいが関係がないからである。もうひとつは何らかの理由により、先
祖の土地が汚されたと解釈した場合だろう。この場合は大規模な衝突がおきる可能性
がある。
太陽神信仰がおきると、この枠組みを越えるところがでてくる。太陽は土地に付属し
ていないからである。東北における、太陽神と山の神の並立祭祀は、地域間の広域ネ
ットワークを構築し、部族長より上の長、すなわち首長をつくりだしただろうと思われ
る。魏志倭人伝にある邪馬台国連合のようなものか。亀ヶ岡土器文化の勢力がつよ
いのは、そのあたりに原因があるのだろう。
ただ、邪馬台国の特定がむずかしいように、首長国としての特別な施設をもつような
ことはなかったようだ。太陽神を祀る主催者としての日の巫女が重要なのであり、演出
上の舞台装置が整うのは、もう少し後の段階になってからと考えられる。あるとすれば
神殿なのだが、日本の場合は木造となるので遺跡として残ることがむずかしい。古代
出雲の巨大神殿は例外としても、類似の施設が東北のどこかに埋もれているのかも
知れない。
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後期以降になると、指揮棒あるいはステッキのようなものがつくられるようになる。材
質はシカの角である。

(日本の美術 縄文時代の装身具 11p 土肥孝著 至文堂)
写真は岩手県にある貝鳥貝塚から出土したものだが、頭部には狼の顔が彫刻されて

(同上 60p)
いる。考えてみればおかしなもので、明治期までは日本にもオオカミがいたのだが、す
っかり忘れ果ててしまっていた。イノシシやシカ、あるいはクマなど凶暴な獣を食べつ
つ、祭祀の対象とするのが縄文時代の日本人で、イヌは丁寧に埋葬し、食べた様子が
見られない。その意味でも、オオカミは特殊な存在だとはいえる。この遺跡では、オオ
カミの下顎部をつかった胸飾りもみつかっており、狩猟対象となっていたらしい。もっと
も、弥生時代になるとイヌまで食べるようになってしまい。イヌはただの家畜に成り下が
ってしまうが。
こういった細かな話は、遺跡ごとに違うように思える。天照大御神が男神か女神とい
う問題をふくめて、記紀がつくられる前に、統一的な見解はおそらく存在しない。地域
あるいは集落ごとに伝えられている内容に違いが存在し、どれを採用しても、完全とい
うことはあり得ない。日本書紀に異論が併記されているのは、このことを伝えているの
だと考えられる。
この指揮棒が登場する以前の段階では、おなじシカの角を素材とする儀仗(ぎじょう)

(同上 14p)
具もつくられている。これは中期に該当する宮城県敷浜遺跡から出土したものだが、
共同祭祀につかうものではなく、個人的な威信を高めることにつかわれた可能性が高
い。装身具の素材として、シカ・イノシシ・クマ、あるいはシャチ、サメ、オオカミといった
ものが好まれるのは、かかる獲物がもつ威信の継承をおこなうということであり、祖霊
として動物神が選ばれるのも、おなじことなのだろう。大和朝廷がおこなった山の神の
打倒は、シカやイノシシ、あるいはクマを対象とするが、同時に、このことを根拠にする
首長あるいは部族長の打倒でもあったようだ。
下の写真は、福岡県山鹿貝塚(後期)の墓に副葬されていたもの(一部)だが、胸飾り

(同上 15p)
として立派な硬玉大珠を装着していたようだ。中央上部にある逆三角形のものはサメの

歯で、これも貴重品といっていいのだろう。貝輪はベンケイガイ製で計45枚が両腕に
装着されたまま埋葬されていた。ちなみに、埋葬者は女性で、それでは仕事はできな
いだろう。特別な地位にいた女性と考えていい。おそらく、日の巫女のまえに、山の巫
女がいたはずで、それは山の神の化身であるシカを祀っていたのだろう。
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以上が大まかな縄文時代の歴史になる。
ここで文化人類学における首長制の定義を引用しておこう。
首長制社会とは、複数の地域集団を、王・貴族・平民・奴隷というような、上下関係
に序列化された人間関係のヒエラルキーの頂点に立つ特定の人物(首長・頭目)
(chief)の支配下に組み込んだ政治的組織体をいう。
(文化人類学 江渕一公著 225p 放送大学教育振興会)
首長制と国家とは、中央集権的政治形態や官僚制組織など、共通する点が非常に
多い。しかし、本質的な相違点は、首長制社会の組織原理が、バンドや部族社会がそ
うであったように、出自、婚姻、年齢、ジェンダーなどを基礎とし、したがって支配者層
がほとんど「縁者」で固められているのに対して、国家は、そうした「縁故関係」を(理論
上)排除し、国家に対する忠誠を誓うすべての階層の出身者を政府の重要な部署に
登用・配置するという組織原理によって成り立っている点、そしてその背景として、社会
がエリートと大衆、富者と貧者というように成層化されている点にあるといえよう。その
組織的特色は古代国家と共通する部分が多い。
(同上 227p)
古代国家と近代国家の違いは、身分階層が出自によるものか、それとも獲得的地
位によるものかで区別されるという。社会学的には、通常、領土・人民・主権(統治権)
の3要素とされるが、国際法上では、国家の要件ないし基準として、恒久的住民・一定
の領土・政府・独立ないし他国と関係をもつ資格、の4つがあげられる。アラブ首長国
連邦などという微妙な存在もあるからである。
社会的変化の様相として、バンド・部族・首長制社会、国家と区分した場合、何をもっ
て成立と見なすかは、これからの検討課題だといえるだろう。
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