人間の移動と文化
文化が変化する要因のひとつとして、人間の移動ということがある。人間が移動する
ことによってあたらしい文化が持ち込まれ、在地の文化と融合したり、伝統が掘り起こ
されたりする。できるだけこういった要素がすくないほど、単純でシンプルなモデルが組
み立てやすい。もちろん、こういった単純モデルの場合、現実との大きな乖離が存在
する。単純モデルに、少しづつ変数を追加して、より現実に近いものに組立直す必要
がある。
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後期旧石器時代は、大まかに北から南への移動がある。

確実なのは、細石器文化をもたらした移動であり、また日本の文化的なつながりが
ある程度認められる。それは、いわゆる縄文土器と重なっているところがあり、縄文土
器出現以降は、連続性が認められる。土器出現より前の段階でも、連続的に変容を
説明できるが、あくまで出土物からの推定であり、実態は定かではない。

草創期になると本州から九州まで土器がつくられるようになる。一方、北海道では石
器の組成が異なるだけでなく、土器も出現しない。また、九州での隆起線文土器は、本
州の隆起線文土器とは違いがある。基調として、北から南のへの文化の広がりを見せ
つつ、後期旧石器時代に本州で土器がつくられた可能性を示唆する。だから、北海道
には土器が出土しない、という仮説が成り立つ。

寒冷期が終わり温暖な気候になると、南方から順に落葉・針葉樹林帯に植生が変
化する。あたらしい文化が北上しはじめる。草創期は、北から南への基調が、南から
北への反転する。その端境期ともいうべき様相をみせる。おそらく、人間の移動をとも
なっている。人が移動しなくなる理由として、先祖祭祀と農耕があげられるだろう。先祖
祭祀がある場合、先祖のいる土地を離れなければならず、断絶を生じる。農耕では、
開墾した農地を放棄せざるを得ない。できれば、そのような事態を避けたい、と考える
だろう。まだ、こういった文化要素が成立していないので、比較的移動が容易である。
日本列島に人類が自然発生する可能性はない。何度か、外部から人間が流入して
いるが、ひとつは先祖祭祀や農耕という文化要素をもっていない場合と、もうひとつは
断腸の思いで移住して来た場合だろう。弥生以降の移住は、後者だと考えられる。
早期になると、尖底土器という器形は同一ながら、撚糸文、押型文、貝殻沈線文土
器がつくられるようになる。この時点では、関東と西日本、北海道西南部と東北という
三つの文化圏を想定していい。この話の前提は、南方から日本列島への流入があ
り、丸ノミ石斧が渡来し、丸木舟をつくるようにことが関わっている。

前期になると、中部・関東の諸磯式が核になって、いわゆる縄文文化が形成される
ようになる。南から北への基調が確定的になり、九州では縄文が施文されることはな
い。別のいい方をすれば、東北南部の大木式から、中国・四国地方の北白川下層式ま

でが大きなひとつのカタマリになっている。先祖祭祀が確立していく時期でもあり、徐
々に文化圏が固定化していくころでもある。
中期になると、中部・関東の優位は確定的になる。勝坂式・阿玉台式・大木式など、
中部地方から東北南部ぐらいまでが、ひとつのカタマリでありリードしていく。一方、西
日本はかなり低調となる。

ところが後期になると状況が一転し、寒冷化のせいで、基調が反転する。北から南
へと変化する。晩期に到り、東北の亀ヶ岡式土器と、西日本の黒色磨研土器の二大
文化圏が成立するようになる。気候の変動が、いかに人間社会に深刻な影響を与え
るのかがわかる。

弥生時代になると、ふたたび変転する。半島から人々が日本列島に流入するように
なる。おそらく、半島および大陸での混乱が原因だろう。水田稲作自体は、縄文晩期
にはじまっていて、米が交易に使われることで、呼び水になったのだろう。古代国家が
成立すれば、税を徴収するようになるのは当然で、その徴収が過酷であればあるほど
農民への負担は増大する。しかし、決定的になるのは、統一のための戦乱がおきるこ
とであり、もはや農耕自体を断念せざるを得ないところまで追い込まれる。

遠賀川式土器の分布圏は、黒色磨研土器の分布圏とほぼ重なる。そして青銅器祭
祀をおこなう文化圏でもある。南から北への文化の波及が見られるようになるが、これ
は政治的な統一プロセスのなかで理解しなければならない。もうひとつは、後期旧石
器時代や縄文時代と比べて、タイムスパンが非常に短いことにある。
青銅器文化は大陸や半島に存在するが、銅剣や銅矛などの形状もかなり違い、銅
鐸はまったく存在しない。すでに独自、というか結局のところ伝統的な価値観で再解釈
するしか方法がなく、考えようによっては細石刃や丸木舟とおなじである。ただ、水田
稲作が広まることによって、農耕文化への移行が確定的になったのは間違いない。農
耕が始まれば、どこでもそうであるように古代文明化のプロセスが自己展開していく。
拍車が掛かって、加速する。
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比較文化史は空間的に異なる文化を比較する。この手法を転用して、古代史を再構
築する目論見だったのだが、あまり上手くいっていない。そこそこの効果はあったが、
きっちり比較できるほどの文化間の差異を抽出できていない。これは先に地域研究を
進める必要があり、地域文化を組み立てて、全体構造をつくるというプロセスが必要と
なる。ところが実際にやっていることは、全体の文化からの分割抽出であり、方法論的
に逆といっていい。古代史を比較文化史で再構築する基礎研究程度のものでしかな
い。実際にやってみてわかったことである。やろうとしていることが巨大すぎるというこ
ともあるし、能力不足というのもあるだろう。結局のところ、自分が今やれることを今や
るしかない。チクチクであろうとも。
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