比較文化史の試み 330


  予定調和説と因果説その2

  法律と予定調和説の関係についても何度か説明しているが、ここでもう少し考察を
 深めておこう。前回も使用した単純モデルを使うことにする。

  因果説は、1+2=3

  予定調和説は、3=1+2、

 の構造をもつ。また、

  因果説は、私+原因=結果、

  予定調和説は、予定=私+調和、

 でもある。合成すると、

  因果説の場合、1(私)+2(原因)=3(結果)、

  予定調和説の場合、3(予定)=1(私)+2(調和)、

  となる。では、ここから、1(私)を抜いてみよう。私がいないと因果説、予定調和説は
 それぞれどうなるかということであり、また、1(私)は別に私である必要がないが、一種
 の前提条件のようなものがなければ、どうなるかということでもある。これを考察しよう
 ということだが、その前に思いだしてもらいたいことがある。

  因果説は、

  原因(現在) → 結果(未来)

 の構造をもち、予定調和説が

  調和(現在) ← 予定(将来)

 の構造をもっていて、両方が同時に成立することはできない。

  因果説の場合、1(私)+2(原因)=3(結果)になるから、私がいないと、2(原因)=
 3(結果)となり破綻する。あるいは2(原因)=2(結果)にならざるを得ない。原因と結
 果がおなじなのだから、事象としては何もおきなかったということである。事象として何
 もおきないと人間が因果を認識するに到らない。この状態を因果説が成立したといえ
 るかどうかは微妙な問題を残すが、因果説は前提条件に依存する。そうしないと通常
 の因果説としては認識されない。

  人間とは限らないが、一番最初に生まれたときは、前世をもたない。従って、前世に
 よって現世が決まり、現世の行いによって来世が決定するという話には、ある種の嘘
 がある。方便というべきか。輪廻転生は、これ以降でないと成立しない。というか、前
 世がないのに、なぜ現世があるのか、という深刻な問題がある。こう質問すると、仏者
 は必ずこう答えるはずである。いえ、それ以前がありまして。それって問題のすり替え
 ジャンとも思うが、輪廻には始まりも終わりも存在しない。はやい話がリング状になって
 いてグルグルまわっているだけだからである。

  輪廻は前提条件に依存するが、輪廻そのものが成立した前提条件を説明すること
 ができない。それは問題の外にあり、仏者が認識し得ない外の世界の出来事だからで
 もある。必要以上にツッコむと、ゆでダコのように真っ赤になって怒るだろうから、やめ
 ておいた方が賢明だろう。

  一方、予定調和説の場合、3(予定)=1(私)+2(調和)だから、私がいないと、3(
 予定)=2(調和)となり破綻する。あるいは3(予定)=3(調和)にならざるを得ない。し
 かし、考えようによっては、3になることが予定なのだから、調和が3になることは、予
 定調和説の完成を意味する。予定調和説にとって、私がいようが、いまいがまったく関
 係がないのである。すなわち、

  予定調和説は、人間存在を否定する。

  法律における人間存在の否定、その最たるものが死刑だろう。

  国連人権委員会が2003年に行った公式発表では、日本の死刑制度を「民主主義
 国家にあるまじき行為」として断罪している。さらに死刑囚たちが、厳正隔離、24時間
 監視、いつ来るとも知れない処刑の恐怖といった悲惨な状態で拘禁されている実態も
 告発する。こうした状態は、「文明国家の原則に相容れない拷問」であり、「いかなる罪
 を犯したとしても正当化されない刑罰」である。

(クーリエ・ジャポン bQ9 2.15 27p)

  国連人権委員会は死刑を特別視しているようだが、拘束だろうが、死刑だろうが、本
 質的にはおなじであり、むしろ法の根幹が死刑といっていい。人間存在否定を否定す
 ると、最終的に法律否定に到達せざるを得ない。自分が何を言っているのか、さっぱ
 り理解していない。これは、

  囚人たちが、厳正隔離、24時間監視、といった悲惨な状態で拘禁されている実態も
 告発する。こうした状態は、「文明国家の原則に相容れない拷問」であり、「いかなる罪
 を犯したとしても正当化されない刑罰」である。

 と読み替えれば、すぐにわかるだろう。

  まあ、ヨーロッパには、大した学者がいないというだけだが。昔の日本では、頭脳流
 出がずいぶんと問題になったことがある。有能で出世欲のある者が、どんどんアメリカ
 に流れていくのは日本だけの現象ではないらしい。たぶん、言語的に近いこともあり、
 日本より容易なのだろう。ちなみに一旦こうなると、死刑廃止は正しい≠ェ潮流とな
 り、他国までゴリ押しするようになる。帝国主義となんら変わりない。戦後にヨーロッパ
 はすべてが変わったが、何も変わっていない。

  いずれにしろ、問題はそこではない。

  予定調和説は、因果説とは違い、前提条件を必要としないということである。前提な
 んぞ、あろうがなかろうが、関係ない。だから、予定調和説によってのみ改革あるいは
 革命が可能なのである。昨日まで、こうだったじゃないですか。へー、だからどうした?
 今日からは違うんだ、で終わり。前提に依存しない。

  実はこれ、立法や法改正と同じ機能をもつことが、すぐにわかるだろう。

  社会学のタームに三権分立というのがある。行政はとりあえず横に置いて説明する
 と、司法は法を司(つかさど、担当する)る≠ニいうことであり、法律があることを前
 提にする。立法は、法を立てる≠ニいうことであり、必ずしも法律があることを前提
 にしない。すなわち、司法は因果説であり、立法は予定調和説である。そして、因果説
 と予定調和説は同時成立しない。

  三権分立を主張したのはロックやモンテスキューだが、権力の濫用うんぬんというよ
 り、立法と司法は機能的に異なるものであり、分離させるのが正しい。以前に、因果
 説と予定調和説をつかって政教分離のモデルを組み立てたことがあったが、司法と立
 法の分離も、この流れのひとつなのかも知れない。 

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最終更新日2007年9月19日