仏教の革命
儒教が循環思想化するプロセスについては既に見たとおりだが、過去回帰の思想
も含んでおり、必ずしも儒教に内在する機能とはいえないところもある。むしろ、外部
要因として仏教の影響がつよい可能性がある。仏教教団は、すでに承知のように輪
廻からの解脱を目的に設立されており、この輪廻が他でもない循環思想だからであ
る。紀元前後に中国に伝わっており、仏教は習合化しやすい面があり、相互に影響を
及ぼしたのだろう。
ブッダが入滅したあと100年後ぐらいに、仏教教団が上座部(じょうざぶ)と大衆部
(だいしゅぶ)に分かれることを根本分裂という。上座部は部派(ぶは)仏教の一派で、
それからの分派である説一切有部などを含めて20部派がある。根本分裂から100
年後ぐらいに起きたもので、これを枝末(しまつ)分裂という。大衆部は人が修行して
解脱に到るのは、内在によるものと解釈する。ブッダは王などの貴族に出家を勧めて
おり、どちらかといえば大衆を布教対象としていない。この意味では、儒教もおなじで
ある。ひとりひとりの個人を救済する。これに対して内部から批判が起きるようにな
り、前1世紀ごろに大乗仏教が成立する。
小乗仏教(ヒーナヤーナ)というのは、大乗仏教(マハーヤーナ)から見た表現で、有
部(うぶ)などを含めた部派仏教のことを指す。大乗はおおきな乗り物≠ニいう意味
で、ひろく衆生を救済するのだとした。思想的萌芽は大衆部にあり、ひとひとりが修行
解脱に到るのは内在していることだから、突き詰めて考えれば誰でも解脱は可能なは
ず、という論法である。
同時に、初期(原始)仏教が釈迦一仏であったのが、阿弥陀仏や薬師如来など仏陀
と観音や地蔵などの多くの菩薩がたてられるようになっていく。そのひとつに弥勒(み
ろく)菩薩があり、ブッダ入滅後の56億7千万年後に、この世に下生(げしょう)し、す
べての衆生(しゅじょう)を救うのだという。弥勒菩薩はブッダの委嘱をうけて不在をお
ぎなうので、補処(ふしょ)の菩薩とも呼ばれることがある。下生するまでは兜率(とそ
つ)天の内院にいて、衆生のために説法しているのだともいう。

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日本には飛鳥時代に伝わり、広隆寺や中宮寺では半跏思惟(はんかしい)像がつくられた。慈愛に満ちた笑みをアルカイック・スマイル(古風の微笑)という。にこやかだが、とんでもない菩薩さまである。 広隆寺の弥勒菩薩像
(図説日本史 41p 東京書籍)
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簡単にいえばそれまでだが、弥勒菩薩はおそろしい事実を内包する。
弥勒菩薩は仏教に注入された猛毒である。
そうではないか。すべての衆生(しゅじょう)を救済する、とはどのようなことか。仏教
に於ける救済は、罪により繰り返し転生する輪廻から解脱して、生まれ変わらないこ
とである。仏陀の救済から取り残された人々(人間とは限らないが)をすべて解脱に
導いていく。最初に99パーセントを仮定すると、つぎは98になり、97、96…………。
どんどん迷いの衆生が減って、やがて2パーセントになり、1パーセントになる。そして
最後は0になる。すべての衆生が救済されるとは、そういうことにならざるを得ない。
では、つぎに何が起きるだろうか。
誰もが転生しなくなる。すべての衆生が解脱してしまうと、輪廻転生する主体として
の識(唯識説に従えば)が存在しなくなってしまうはずである。輪廻が起きなくなる。い
や、輪廻が成立できなくなってしまうではないか。
上座仏教あるいは大乗仏教でもそうだが、あらゆる宗派は輪廻する世界から解脱
することを目的にする。ところが、弥勒菩薩が登場した後の世界では、輪廻が消滅し
てしまう。弥勒菩薩は輪廻のある世界を破壊し、仏教そのものを不要とする。世界が
変わってしまうのである。おそろしいことだとは思わないか。
大乗仏教の大きな流れのひとつが7世紀のインドにおける密教の成立である。ヒン
ドゥー教の教理や、古来の神々を仏教に取り入れて密教が成立する。仏教には守護
する天竜八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)と呼ばれる神々が存在しており、天・竜・夜
叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きん
なら)・摩目侯羅迦(まごらか)のことを指す。また、天または天部(てんぶ)、諸天部は、
帝釈(たいしゃく)天や毘沙門(びしゃもん)天など、天に住む神々とされる。竜は竜神
や竜王のことで、雨乞いに関係する。夜叉は森林に生息し人肉を食う鬼神であり、乾
闥婆と緊那羅は帝釈天に仕える楽神だとされる。阿修羅は帝釈天などと戦う悪神とさ
れ、迦楼羅は巨鳥で竜を食う。摩目侯羅迦は蛇の神だという。
古事記にある八俣大蛇退治の話は、密教が比較的はやい時期につたわったことを
教える。
やら いづものくに ひ かはかみ とりかみ ところ くだ
かれ、避追はえて、出 雲 国の肥の河 上、名は鳥髪といふ地 に降りましき。こ
はし くだ おも
の時、箸その河より流れ下りき。ここに須佐之男命、人その河上にありと以為ほして、
ま のぼ ゆ おきな おみな をとめ
尋ね覓ぎ上 り往きたまへば、老夫と老女と二人ありて、童女を中に置きて泣けり。こ
いましたち たれ おきな まを あ おおやま
こに「汝 等は誰ぞ」と問いたまひき。かれ、その老夫答へ言さく、「僕は国つ神大山
つみ あ あしなづち い め てなづち ママ くしいな
津見神の子なり。僕が名は足名椎と謂ひ、妻が名は手名椎と謂ひ、女が女 は櫛名
だひめ い
田比売と謂ふ」とまをしき。
(古事記上 97p 次田真幸全訳注 講談社)
@ 鳥髪(とりかみ)は鳥の神≠フ意で、竜を食べる巨鳥の迦楼羅(かるら)。
A 老女(おみな)は婆(ばば)のことだから、乾闥婆(けんだつば)との接合。
B 足名椎(あしなづち)は阿修羅(あしゅら)の変形。
な ゆえ まを むすめ もと やをとめ
また「汝の哭く由は何ぞ」と問ひたまへば、答え白さく、「我が 女 は本より八稚女あ
こし やまた くら く
りしを、この高志の八 俣のをろち年ごとに来て喫へり。今そが来べき時なるが故に
いか まを
泣く」とまをしき。ここに「その形は如何に」と問いひたまへば、答えて白さく、「その目は
やかしらやを ひかげ ひ すぎ
赤かがち(ほおずき)の如くして、身一つに八頭八尾あり。またその身に蘿 と檜・ 椙
たけ たにやたに をやを わた ことごと ただ
と生ひ、その長は谿八谷・峡八尾に度りて、その腹を見れば 悉 く血に爛 れたり」
とまをしき。
(同上 97〜98p)
@ 八は八部衆の示唆。
A 蘿は草冠(くさかんむり)をとって羅とする。
阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩目侯羅迦への接続。
B 大蛇はヘビであり、ヘビの神は摩目侯羅迦。
C 人を喰うのが夜叉。夜叉の叉は、「また」とも読む。つまり夜叉(やまた)である。
最後の蛇(をろち)はもう少し複雑で、蛇の虫偏(むしへん)をとり、阜偏(こざとへん)
をつける。蛇と陀。仏陀の暗示であり、草薙剣を通して八俣大蛇と天武天皇が接続さ
れる。八俣大蛇の話は、天武天皇が仏陀の首を切り落としたという意味になる。
それはそうだろう。弥勒菩薩の登場する前の世界は、循環思想としての輪廻が存在
するが、出現後の世界には輪廻が存在しない。しかも、輪廻のなくなった世界から輪
廻のあった世界に戻ることができない。世界は滝のように断絶し、繰り返さない。
別のいい方をすれば、輪廻という循環思想を破壊してやれば、仏教は不要になると
いうことである。ここに天武天皇の、想像を絶した天才がある。弥勒菩薩は革命に他
ならない。そう読み抜いたところに、天武天皇の改革の本質がある。
川のように流れる歴史観と、循環思想の仏教は徹底的に対立する。儒教が循環思
想に変質していったのとは逆に、大乗仏教は予定調和説によって循環思想を否定す
るところに到達したのである。
放送大学のテキスト『日本の文化と思想』(大隅和雄著)によれば、
中世に書かれた歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』は、天に見放された王が滅びる過
程で、徳を具えた者が打ち勝って王になるのが、歴史の普遍的な道理であるが、日
本ではその道理が通用しないことを強調し、『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』は、
皇統が単純に父から子へと継承されていないことに注目し、系図の上で別の流れに
移ることを、王朝の交替に準えて儒教的な歴史解釈に付会している。
しかし、天皇を別にして、武家の歴史を考えると、その推移を易姓革命として見るこ
とは容易であった。(81p)
愚管抄は鎌倉初期ごろに、神皇正統記は1339年ごろに成立する。中世における
歴史観は儒教を前提に組み立てられていて、天武天皇のそれは現代的な歴史観に
近い。この点で、中世の日本人は天武天皇をどうしても理解できない。儒教を軸にし
て、ものごとを理解しようとするからである。そして現代人は儒教がわからず、儒教の
下部構造にある歴史が理解できない。意味内容が異なる歴史という言葉を不用意に
つかい、混乱を招いているのである。注意してもらいたい。
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