OHZAPPA〜繁茂する雑想〜

 おおざっぱに(世界中の人間人種を地球人と呼ぶように)いえば、そのことを、記号学的にはラングとなり、吉本と岸田は共同幻想といい、日高敏隆は(二代目引田天功は二次的にw)イリュージョンといい、養老は結納いや唯脳論として唱え、茂木は仮想といい、そして河合隼雄はコンステレーションととらえていると思う。

 ほかの心理学脳科学動物学者たちのそれらが個体の頭脳で起っていることを推論する(充分に既知ではない概念をとにかく大雑把にでも理解するためにはまず比喩を)内部スタイルシート的であるのに比べ、吉本のそれは外部スタイルシート的な構築だと思う。

 本(活字エクリチュール)はHDDで、頭脳がメモリー。

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 世界中の人間を地球人と呼ぶように大雑把にいえば、そのことを、吉本と岸田は共同幻想といい、日高敏隆は(二代目引田天功は二次的にw)イリュージョンといい、養老は結納いや唯脳論として唱え、茂木は仮想といい、記号学的にはラングとなり、そして河合隼雄はコンステレーションととらえていると思う。

 ほかの心理学脳科学動物学者たちのそれらが個体の頭脳で起っていることを(充分に既知ではない概念をとにかく大雑把にでも理解するためにはまず比喩が必要)内部スタイルシート的に推論する構築であるのに比べ、吉本のそれは外部スタイルシート的な推論構築だと思う。

 コンステレーションとはもともとは星座のことで、布置とも訳されるように人からの投影である。例えば天秤座なら、恒星たちがその意思で天秤のような図形に並んでいるわけではなく、人が天秤のイメージを夜空に投げかけてこじつけるわけだ。だからこれは、ほとんど記号論と同種と言ってよく、そのこじつけ方がユングの原型論を通じて人類に普遍的に可能な投影として、

 本(活字エクリチュール)はHDDで、頭脳がメモリー。

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世界中の人間を地球人と呼ぶように大雑把に捉えれば、それらの源泉といえるのは主観間性という観念で、そのことを、吉本と岸田は共同幻想といい、日高敏隆は(二代目引田天功は二次的にw)イリュージョンといい、養老は結納いや唯脳論として唱え、茂木は仮想といい、記号学的にはラングとなり、そして河合隼雄はコンステレーションととらえていると思う。

 ほかの心理学脳科学動物学者たちのそれらが個体の頭脳で起っていることを(充分に既知ではない概念をとにかく大雑把にでも理解するためにはまず比喩が必要)内部スタイルシート的に推論する構築であるのに比べ、吉本のそれは外部スタイルシート的な推論構築だと思う。

 コンステレーションとはもともとは星座のことで、布置とも訳されるように人からの投影である。例えば天秤座なら、恒星たちがそれらの意思で天秤のような図形に並んでいるわけではなく、人が天秤のイメージを夜空に投げかけてこじつけるわけだ。だからこれは、ほとんど記号論と同種と言ってよく、そのこじつけ方はユングの原型論を通じて人類に普遍的に可能な投影だということが、なん(と)なく理解できるだろう。

 河合隼雄が掌握していたコンステレーションとは、事象現象の縁起性を私たち人間のそれらへのコンステレーションイメージという網の投げかけだと理解することで、シンクロニシティ(共時性)がシンクロニシティと感じられるのはコンステレーションするからなのだ。

 クリステヴァのテクスト間性とは、二代目引田天功とは違った意味で(?同じかな?)二次的なそれだが、森羅万象をテクストとコンステレーションすれば一次的なそれらと変るところはないが、そう見なしてしまうとせっかくの得難いパラダイムが拡散霧消してしまう。

 本(活字エクリチュール)はHDDで、頭脳がメモリー。

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世界中の人間を地球人と呼ぶように大雑把に捉えれば、それらの源泉といえるのは主観間性という観念で、そのことを、吉本と岸田は共同幻想といい、日高敏隆は(二代目引田天功は二次的にw)イリュージョンといい、養老は結納いや唯脳論として唱え、茂木は仮想といい、記号学的にはラングとなり、そして河合隼雄はコンステレーションととらえていると思う。

 ほかの心理学脳科学動物学者たちのそれらが個体の頭脳で起っていることを(充分に既知ではない概念をとにかく大雑把するためにはまず比喩を)内部スタイルシート的に推論する構築であるのに比べ、吉本のそれは外部スタイルシート的な推論構築だと思う。

 コンステレーションとはもともとは星座のことで、布置とも訳されるように人からの投影である。例えば天秤座なら、恒星たちがそれらの意思で天秤のような図形に並んでいるわけではなく、人が天秤のイメージを夜空に投げかけてこじつけるわけだ。だからこれは、ほとんど記号論(意味作用の記号論)と同種と言ってよく、そのこじつけ方はユングの原型論を通じて人類に普遍的に可能な投影だということが、なん(と)なく理解できるだろう。

 河合隼雄が掌握していたコンステレーションとは、事象現象の縁起性を私たち人間のそれらへのコンステレーションイメージという網の投げかけだと了解することであり、シンクロニシティ(共時性)がシンクロニシティと感じられるのはコンステレーションするからなのだ。例) 隣町は新開港成金シティだから、やたらだだっ広い道路が走っていて、その道路沿いに当時全盛期のユニクロがオープンした。連日の賑わいを見て、次から次へとユニクロのコピー店が乱立。→フム、これがユニクロニシティだな(^_^;)\('_') 欧米か!
 突っ込みを共時性かユングかにするべきかはともかくとして、コピー店の乱立という共時性を経営策の観点で結びつけた解釈も、一つの縁起コンステレーションに他ならない。 そして、ユニクロニシティだな(^_^;) と \('_') 欧米か!の間というか繋がりというか包むというかには、プチ共同幻想が存在しているといえるし、それを聞いて見て笑った人々がいればその規模にプチ共同幻想が広まったことになる。当初のコンビ間プチ幻想が吉本の対幻想とは全く無関係なことはいうまでもないが、また、このプチはどんなに拡大しようと外れないプチだから、集団幻想とは小雑把に意を異にする。

 クリステヴァのテクスト間性とは、二代目引田天功とは違った意味で(?同じかな?)二次的なそれだが、森羅万象をテクストとコンステレーションすれば一次的なそれらと変るところはないが、そう見なしてしまうとせっかくの得難いパラダイムが拡散霧消してしまう。

 本(活字エクリチュール)はHDDで、頭脳がメモリー。

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       雑草=非目的栽培植物   

 世界中の人間を地球人と呼ぶように大雑把に捉えれば、それらの源泉といえるのは主観間性という観念で、そのことを、吉本と岸田は共同幻想といい、日高敏隆は(二代目引田天功は二次的にw)イリュージョンといい、養老は結納いや唯脳論として唱え、茂木は仮想といい、記号学的にはラングとなり、そして河合隼雄はコンステレーションととらえていると思う。
 ほかの心理学脳科学動物学者たちのそれらが個体の頭脳で起っていることを(充分に既知ではない概念をとにかく大雑把するためにはまず比喩を)内部スタイルシート的に推論する構築であるのに比べ、吉本のそれは外部スタイルシート的な推論構築だと思う。あるいは逆に喩えた方がいいかもしれない。(吉本のそれは唯幻・脳論としての共同幻想ではない、といった方がいいだろうか)

 コンステレーションとはもともとは星座のことで、布置とも訳されるように人からの投影である。例えば天秤座なら、恒星たちがそれらの意思で天秤のような図形に並んでいるわけではなく、人が天秤のイメージを夜空に投げかけてこじつけるわけだ。だからこれは、ほとんど記号論(意味作用の記号論)と同種と言ってよく、そのこじつけ方はユングの原型論を通じて人類に普遍的に可能な投影だということが、なん(と)なく了解できるだろう。
 河合隼雄が掌握していたコンステレーションとは、事象現象の縁起性を私たち人間のそれらへのコンステレーションイメージという網の投げかけだと了解することであり、シンクロニシティ(共時性)がシンクロニシティと感じられるのはコンステレーションするからなのだ。
例) 隣町は新開港成金シティだから、やたらだだっ広い道路が走っていて、その道路沿いに当時全盛期のユニクロがオープンした。連日の賑わいを見て、次から次へとユニクロのコピー店が乱立。→フム、これがユニクロニシティだな(^_^;)\('_') 欧米か!
 突っ込みを共時性かユングかにするべきかはともかくとして、コピー店の乱立という共時性を経営策の観点で結びつけた解釈も、一つの縁起コンステレーションに他ならない。
 そして、ユニクロニシティだな(^_^;) と \('_') 欧米か!の間というか繋がりというか包むというかには、プチ共同幻想が存在しているといえるし、それを聞いて見て笑った人々がいればその規模にプチ共同幻想が広まったことになる。当初のコンビ間プチ幻想が吉本の対幻想とは全く無関係なことはいうまでもないが、また、このプチは当該の幻想がどんなに拡大しようと付いて回る意味でのプチである。大小とはあまり関係のないプチだから、吉本興業的共同幻想とでも仮称したいが、欧米か!のコンビは吉本興業所属ではないのでは?…よよ吉本興業だった…シシシンクロニシティだ^^;

 クリステヴァのテクスト間性とは、二代目引田天功とは違った意味で(?同じかな?)二次的なそれだが、森羅万象をテクストとコンステレーションすれば一次的なそれらと変るところはないが、そう見なして片付けてしまうとせっかくの得難いパラダイムが拡散霧消してしまう。
 それは茂木健のそれにもいえて、一次的に平に均してしまえばせっかくのクオリティ(科学的分析できないものごと)が、その仮想が輝きを失ってしまう。ほかに名前の出ている方々から借りてきたシーニュも多かれ少なかれ同じこと。

 そもそもOHZAPPAというエクリチュールで表出しようとしていることは、吉本隆明の共同幻想とはこうこうしかじかで養老孟司の唯脳論はああだこうだとかいうことではなく、方々のポイント・タームのシニフィアンを若干だけのシニフェと共に無断で借りてきて(泥棒という人もいる)一個人のラング体系の中に投げ込むことにより、ラングのmyWeb環境の変化を楽しもう、その過程を指示表出してみようという試みなのだ。したがって、元祖か本家のターム自体の内包はより貧相になるのは当然だし、それは改変散布ということだから泥棒とは別の権利侵害もあるという人もいるようだが、それには小島よしお(そんなの関係ねえ!)にバカの壁を作ってもらって対処しよう。害虫駆除剤を使うよりは環境にやさしい。 

 ターム→ミクロの共同幻想  分り易くone単語のシニフィアン/シニフェ→ミクロというより基礎の共同幻想 ある単語×単語=内包と差異の増大 一つの言葉を了解するということは、自身のラングをコンステレーションしてその網にかかったということ ラジオ受信のチューニングの例(養老の脳内過程)

 本(活字エクリチュール)はHDDで、頭脳がメモリー。 

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       雑草=非目的栽培植物   

 世界中の人間を地球人と呼ぶように大雑把に捉えれば、それらの源泉といえるのは主観間性という観念で、そのことを、吉本と岸田は共同幻想といい、日高敏隆は(二代目引田天功は二次的にw)イリュージョンといい、養老は結納いや唯脳論として唱え、茂木は仮想といい、記号学的にはラングとなり、そして河合隼雄はコンステレーションととらえていると思う。
 ほかの心理学脳科学動物学者たちのそれらが個体の頭脳で起っていることを(充分に既知ではない概念をとにかく大雑把するためにはまず比喩を)内部スタイルシート的に推論する構築であるのに比べ、吉本のそれは外部スタイルシート的な推論構築だと思う。あるいは逆に喩えた方がいいかもしれない。(吉本のそれは唯幻・唯脳論としての共同幻想ではない、といった方がいいだろうか)

 コンステレーションとはもともとは星座のことで、布置とも訳されるように人からの投影である。例えば天秤座なら、恒星たちがそれらの意思で天秤のような図形に並んでいるわけではなく、人が天秤のイメージを夜空に投げかけてこじつけるわけだ。だからこれは、ほとんど意味作用の記号論と同種と言ってよく、そのこじつけ方はユングの原型論を通じて人類に普遍的に可能な投影だということが、なん(と)なく了解できるだろう。
 河合隼雄が掌握していたコンステレーションとは、事象現象の縁起性を私たち人間のそれらへのコンステレーションイメージという網の投げかけだと了解することであり、シンクロニシティ(共時性)がシンクロニシティと感じられるのはコンステレーションするからなのだ。
例) 隣町は新開港成金シティだから、やたらだだっ広い道路が走っていて、その道路沿いに当時全盛期のユニクロがオープンした。連日の賑わいを見て、次から次へとユニクロのコピー店が乱立。→フム、これがユニクロニシティだな(^_^;)\('_') 欧米か!
 突っ込みを共時性かユングかにするべきかはともかくとして、コピー店の乱立という共時性を資本主義競争経済活動という観点(科学的因果律)で結びつけた解釈も、一つの縁起コンステレーションに他ならない。
 そして、ユニクロニシティだな(^_^;) と \('_') 欧米か!の間というか繋がりというか包むというかには、プチ共同幻想が存在しているといえるし、それを聞いて見て笑った人々がいればその規模にプチ共同幻想が広まったことになる。当初のコンビ間プチ幻想が吉本の対幻想とは全く無関係なことはいうまでもないが、また、このプチは当該の幻想がどんなに拡大しようと付いて回るプチで、大小とはあまり関係のないプチだから、吉本的共同幻想とでも仮称しよう。分り易くいえば「近代漫才基本エクリチュール(話式)共同幻想」だが。

 クリステヴァのテクスト間性とは、二代目引田天功とは違った意味で(?同じかな?)二次的なそれだが、森羅万象をテクストとコンステレーションすれば一次的なそれらと変るところはないが、そう見なして片付けてしまうとせっかくの得難いパラダイムが拡散霧消してしまう。
 それは茂木健のそれにもいえて、一次的に平に均してしまえばせっかくのクオリティ(科学的分析できないものごと)が、その仮想が輝きを失ってしまう。ほかに名前の出ている方々から借りてきたシーニュも多かれ少なかれ同じこと。

 そもそもOHZAPPAというエクリチュールで表出しようとしていることは、吉本隆明の共同幻想とはこうこうしかじかで養老孟司の唯脳論はああだこうだとかいうことではなく、方々のポイント・タームのシニフィアンを若干だけのシニフェと共に無断で借りてきて(泥棒という人もいる)一個人のラング体系の中に投げ込むことにより、ラングのmyWeb環境の変化を楽しもう、その過程を指示表出してみようという試みなのだ。したがって、元祖か本家のターム自体の内包はより貧相になるのは当然だし、それは改変散布ということだから泥棒とは別の権利侵害もあるという人(団体)もいるようだが、それには小島よしおにバカの壁(そんなの関係ねえ!)を作ってもらって対処しよう。害虫駆除剤を使うよりは環境にやさしい。

 ターム→ミクロの共同幻想  分り易くone単語のシニフィアン/シニフェ→ミクロというより基礎の共同幻想 ある単語×単語=内包と差異の増大(外延と同定の増大)ん?逆か?対義語とは最対極の類似後だし。 一つの言葉を了解するということは、自身のラングをコンステレーションしてその網にかかったということ ラジオ受信のチューニングの例(養老の脳内過程)(茂木は、言葉の意味の了解はタッチポイントの総体で決まると) 
 自己表出/指示表出は「的」で使えるタームと思っていた→中ための社会科にそれが。また、共同幻想のことを「呼び方は観念といってもいいしなんでもいい」 やはり、「的」でよかったんだ(p_-)
 自己幻想?(・ω・ノ)ノ共同幻想( ^^) _旦~~そのまんまだったり逆立ちしたりでんぐりがえしもするだろう
 Ozappaの半分くらい又は全てが「自己比喩」へ。

 本(活字エクリチュール)はHDDで、頭脳がメモリー。

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       雑草=非目的栽培植物   

 世界中の人間を地球人と呼ぶように大雑把に捉えれば、それらの源泉といえるのは主観間性という観念で、そのことを、吉本と岸田は共同幻想といい、日高敏隆は(二代目引田天功は二次的にw)イリュージョンといい、養老は結納いや唯脳論として唱え、茂木は仮想といい、記号学的にはラングとなり、そして河合隼雄はコンステレーションととらえていると思う。
 ほかの心理学脳科学動物学者たちのそれらが個体の頭脳で起っていることを(充分に既知ではない概念をとにかく大雑把するためにはまず比喩を)内部スタイルシート的に推論する構築であるのに比べ、吉本のそれは外部スタイルシート的な推論構築だと思う。あるいは逆に喩えた方がいいかもしれない。(吉本のそれは唯幻・唯脳論としての共同幻想ではない、といった方がいいだろうか)
 コンステレーションとはもともとは星座のことで、布置とも訳されるように人からの投影である。例えば天秤座なら、恒星たちがそれらの意思で天秤のような図形に並んでいるわけではなく、人が天秤のイメージを夜空に投げかけてこじつけるわけだ。だからこれは、ほとんど意味作用の記号論と同種と言ってよく、そのこじつけ方はユングの原型論を通じて人類に普遍的に可能な投影だということが、なん(と)なく了解できるだろう。

 河合隼雄が掌握していたコンステレーションとは、事象現象の縁起性を私たち人間のそれらへのコンステレーションイメージという網の投げかけだと了解することであり、シンクロニシティ(共時性)がシンクロニシティと感じられるのはコンステレーションするからなのだ。
例) 隣町は新開港成金シティだから、やたらだだっ広い道路が走っていて、その道路沿いに当時全盛期のユニクロがオープンした。連日の賑わいを見て、次から次へとユニクロのコピー店が乱立。→フム、これがユニクロニシティだな(^_^;)\('_') 欧米か!
 突っ込みを共時性かユングかにするべきかはともかくとして、コピー店の乱立という共時性を資本主義競争経済活動という観点(科学的因果性)で結びつけた解釈も、縁起性コンステレーションの一つに他ならない。
 そして、ユニクロニシティだな(^_^;) と \('_') 欧米か!の間というか繋がりというか包むというかには、プチ共同幻想が存在しているといえるし、それを聞いて見て笑った人々がいればその規模にプチ共同幻想が広まったことになる。当初のコンビ間プチ幻想が吉本の対幻想とは全く無関係なことはいうまでもないが、また、このプチは当該の幻想がどんなに拡大しようと付いて回るプチで、大小とはあまり関係のないプチだから、吉本的共同幻想とでも仮称しよう。分り易くいえば「近代漫才基本エクリチュール(話式)共同幻想」だが。

 クリステヴァのテクスト間性とは、二代目引田天功とは違った意味で(?同じかな?)二次的なそれだが、森羅万象をテクストだとコンステレーションすれば一次的なそれらと変るところはないが、そう見なして片付けてしまうとせっかくの得難いパラダイムが拡散霧消してしまう。
 それは茂木健のそれにもいえて、一次的に平に均してしまえばせっかくのクオリティ(科学的分析できないものごと)が、その仮想が輝きを失ってしまう。ほかに名前の出ている方々から借りてきたシーニュも多かれ少なかれ同じこと。
 そもそもOHZAPPAというエクリチュールで表出しようとしていることは、吉本隆明の共同幻想とはこうこうしかじかで養老孟司の唯脳論はああだこうだとかいうことではなく、方々のポイント・タームのシニフィアンを若干だけのシニフェと共に無断で借りてきて(泥棒という人もいる)一個人のラング体系の中に投げ込むことにより、ラングのmyWeb環境の変化を楽しもう、その過程を指示表出してみようという試みなのだ。したがって、元祖か本家のターム自体の内包はより貧相になるのは当然だし、それは改変散布ということだから泥棒とは別の権利侵害もあるという人(団体)もいるようだが、それには小島よしおにバカの壁(そんなの関係ねえ!)を作ってもらって対処しよう。害虫駆除剤を使うよりは環境にやさしい。

 タームの矮小化ということでは、河合隼雄が晩年まで課題としたコンステレーションについてが自称カワイアン(追っかけ度として・大佛次郎賞受賞まで)としては余りにも目に余るので少し補足しておこう。
 星々へのラング網の投げかけがコンステレーションなら、投げかけるそれは言わずと知れた無意識層で、その布置momentarily constellated を読み取るのは意識であろう。
 自分も星座の一つに入っていることが大切、と河合隼雄。

 ターム→ミクロの共同幻想  分り易くone単語のシニフィアン/シニフェ→ミクロというより基礎の共同幻想 ある単語×単語=内包と差異の増大(外延と同定の増大)ん?逆か?対義語とは最対極の類似後だし。 一つの言葉を了解するということは、自身のラングをコンステレーションしてその網にかかったということ 投げかけるそれは言わずと知れた無意識層で、その布置momentarily constellated を読み取るのは意識であろう。ラジオ受信のチューニングの例(養老の脳内過程)(茂木は、言葉の意味の了解はタッチポイントの総体で決まると)  ☆シニフェorシーニュの交差減数分裂
 自己表出/指示表出は「的」で使えるタームと思っていた→中ための社会科にそれが。また、共同幻想のことを「呼び方は観念といってもいいしなんでもいい」 やはり、「的」でよかったんだ(p_-)
 自己幻想?(・ω・ノ)ノ共同幻想( ^^) _旦~~そのまんまだったり逆立ちしたりでんぐりがえしもするだろう
 Ozappaの半分くらい又は全てが「自己比喩」へ。

 本(活字エクリチュール)はHDDで、頭脳がメモリー。 

                              ↓

       雑草=非目的栽培植物   

 世界中の人間を地球人と呼ぶように大雑把に捉えれば、それらの源泉といえるのは主観間性という観念で、そのことを、吉本と岸田は共同幻想といい、日高敏隆は(二代目引田天功は二次的にw)イリュージョンといい、養老は結納いや唯脳論として唱え、茂木は仮想といい、記号学的にはラングとなり、そして河合隼雄はコンステレーションと捉えていると思う。

 ほかの心理学脳科学動物学者たちのそれらが個体の頭脳で起っていることを(充分に既知ではない概念をとにかく大雑把するためにはまず比喩を)内部スタイルシート的に推論する構築であるのに比べ、吉本のそれは外部スタイルシート的な推論構築だと思う。あるいは逆に喩えた方がいいかもしれない。(吉本のそれは唯幻・唯脳論としての共同幻想ではない、といった方がいいだろうか)
 吉本の「自己幻想」は概ね自意識と見られるが、これを幅広く?岸田の「私的幻想」と捉え直すとはっきりするのだが、私的幻想が共同幻想化していくのではなく、まず共同幻想があってそれが私的幻想化していくことなので、その反対に錯覚していた。
 共同幻想の代表といえば言語(ラング)なのだから、まずラングが個人に入ってきてそして私的幻想化するのだった。

 コンステレーションとはもともとは星座のことで、布置とも訳されるように人からの投影である。例えば天秤座なら、恒星たちがそれらの意思で天秤のような図形に並んでいるわけではなく、人が天秤のイメージを夜空に投げかけてこじつけるわけだ。だからこれは、ほとんど意味作用の記号論と同種と言ってよく、そのこじつけ方はユングの原型論を通じて人類に普遍的に可能な投影だということが、なん(と)なく了解できるだろう。

 河合隼雄が掌握していたコンステレーションとは、事象現象の縁起性を私たち人間のそれらへのコンステレーションイメージという網の投げかけだと了解することであり、シンクロニシティ(共時性)がシンクロニシティと感じられるのはコンステレーションするからなのだ。

例) 隣町は新開港成金シティだから、やたらだだっ広い道路が走っていて、その道路沿いに当時全盛期のユニクロがオープンした。連日の賑わいを見て、次から次へとユニクロのコピー店が乱立。→フム、これがユニクロニシティだな(^_^;)\('_') 欧米か!

 突っ込みを共時性かユングかにするべきかはともかくとして、コピー店の乱立という共時性を資本主義競争経済活動という観点(科学的因果性)で結びつけた解釈も、縁起性コンステレーションの一つに他ならない。

 そして、ユニクロニシティだな(^_^;) と \('_') 欧米か!の間というか繋がりというか包むというかには、プチ共同幻想が存在しているといえるし、それを聞いて見て笑った人々がいればその規模にプチ共同幻想が広まったことになる。当初のコンビ間プチ幻想が吉本隆明の対幻想とは全く無関係なことはいうまでもないが、また、このプチは当該の幻想がどんなに拡大しようと付いて回るプチで、大小とはあまり関係のないプチだから、吉本型共同幻想とでも仮称しよう。分り易くいえば「近代漫才基本パロール共同幻想」とでもいうか。

 クリステヴァのテクスト間性とは、二代目引田天功とは違った意味で(?同じかな?)二次的なそれだが、森羅万象をテクストだとコンステレーションすれば一次的なそれらと変るところはないが、そう見なして片付けてしまうとせっかくの得難いパラダイムが拡散霧消してしまう。

 それは茂木健のそれにもいえて、一次的に平に均してしまえばせっかくのクオリア(科学的分析できないものごと)が、その仮想が輝きを失ってしまう。ほかに名前の出ている方々から借りてきたシーニュも多かれ少なかれ同じこと。

 そもそもOHZAPPAというエクリチュールで表出しようとしていることは、吉本隆明の共同幻想とはこうこうしかじかで養老孟司の唯脳論はああだこうだとかいうことではなく、方々のポイント・タームのシニフィアンを若干だけのシニフェと共に無断で借りてきて(泥棒という人もいる)一個人のラング体系の中に投げ込むことにより、ラングのmyWeb環境の変化を楽しもう、その過程を指示表出してみようという試みなのだ。したがって、元祖か本家のターム自体の内包はより貧相になるのは当然だし、それは改変散布ということだから泥棒とは別の権利侵害もあるという人(団体)もいるようだが、それには小島よしおにバカの壁(そんなの関係ねえ!)を作ってもらって対処しよう。害虫駆除剤を使うよりは環境にやさしい。

 星々へのラング網の投げかけがコンステレーションなら、投げかけるそれは言わずと知れた無意識層で、その布置momentarily constellated を読み取る(意識化する)のは自我なのだろう。理想的には自己だが、それは不可能としか思えないので、なるべく自己に近い自我か。いや、この文脈ではまずいので、言い換えたい。

 クリステヴァとは逆向きかと思っていたが、同じだった!

 自分も星座の一つに入っていることが大切、と河合隼雄。

 ターム→ミクロの共同幻想  分り易くone単語のシニフィアン/シニフェ→ミクロというより基礎の共同幻想 ある単語×単語=内包と差異の増大(外延と同定の増大)ん?逆か?対義語とは最対極の類似後だし。 一つの言葉を了解するということは、自身のラングをコンステレーションしてその網にかかったということ 投げかけるそれは言わずと知れた無意識層で、その布置momentarily constellated を読み取るのは意識であろう。ラジオ受信のチューニングの例(養老の脳内過程)(茂木は、言葉の意味の了解はタッチポイントの総体で決まると)  ☆シニフェorシーニュの交差減数分裂

 自己表出/指示表出は「的」で使えるタームと思っていた→中ための社会科にそれが。また、共同幻想のことを「呼び方は観念といってもいいしなんでもいい」 やはり、「的」でよかったんだ(p_-)

 自己幻想?(・ω・ノ)ノ共同幻想( ^^) _旦~~そのまんまだったり逆立ちしたりでんぐりがえしもするだろう

 Ozappaの半分くらい又は全てが「自己比喩」へ。

                         ↓

 世界中の人間を地球人と呼ぶように大雑把に捉えれば、それらの源泉といえるのは主観間性という観念で、そのことを、吉本と岸田は共同幻想といい、日高敏隆は(二代目引田天功は二次的にw)イリュージョンといい、養老は結納いや唯脳論として唱え、茂木は仮想といい、記号学的にはラングとなり、そして河合隼雄はコンステレーションととらえていると思う。

 ほかの心理学脳科学動物学者たちのそれらが個体の頭脳で起っていることを(充分に既知ではない概念をとにかく大雑把するためにはまず比喩を)内部スタイルシート的に推論する構築であるのに比べ、吉本のそれは外部スタイルシート的な推論構築だと思う。あるいは逆に喩えた方がいいかもしれない。(吉本のそれは唯幻・唯脳論としての共同幻想ではない、といった方がいいだろうか)

 吉本の「自己幻想」は概ね自意識と見られるが、これを幅広く?岸田の「私的幻想」と捉え直すとはっきりするのだが、私的幻想が共同幻想化していくのではなく、まず共同幻想があってそれが私的幻想化していくことなので、その反対に錯覚していた。

 共同幻想の代表といえば言語(ラング)なのだから、まずラングが個人に入ってきてそして私的幻想化するのだった。

 コンステレーションとはもともとは星座のことで、布置とも訳されるように人からの投影である。例えば天秤座なら、恒星たちがそれらの意思で天秤のような図形に並んでいるわけではなく、人が天秤のイメージを夜空に投げかけてこじつけるわけだ。だからこれは、ほとんど意味作用の記号論と同種と言ってよく、そのこじつけ方はユングの原型論を通じて人類に普遍的に可能な投影だということが、なん(と)なく了解できるだろう。

 河合隼雄が掌握していたコンステレーションとは、事象現象の縁起性を私たち人間のそれらへのコンステレーションイメージという網の投げかけだと了解することであり、シンクロニシティ(共時性)がシンクロニシティと感じられるのはコンステレーションするからなのだ。

例) 隣町は新開港成金シティだから、やたらだだっ広い道路が走っていて、その道路沿いに当時全盛期のユニクロがオープンした。連日の賑わいを見て、次から次へとユニクロのコピー店が乱立。→フム、これがユニクロニシティだな(^_^;)\('_') 欧米か!

 突っ込みを共時性かユングかにするべきかはともかくとして、コピー店の乱立という共時性を資本主義競争経済活動という観点(科学的因果性)で結びつけた解釈も、縁起性コンステレーションの一つに他ならない。

 そして、ユニクロニシティだな(^_^;) と \('_') 欧米か!の間というか繋がりというか包むというかには、プチ共同幻想が存在しているといえるし、それを聞いて見て笑った人々がいればその規模にプチ共同幻想が広まったことになる。当初のコンビ間プチ幻想が吉本隆明の対幻想とは全く無関係なことはいうまでもないが、また、このプチは当該の幻想がどんなに拡大しようと付いて回るプチで、大小とはあまり関係のないプチだから、吉本型共同幻想とでも仮称しよう。分り易くいえば「近代漫才基本パロール共同幻想」とでもいうか。

 クリステヴァのテクスト間性とは、二代目引田天功とは違った意味で(?同じかな?)二次的なそれだが、森羅万象をテクストだとコンステレーションすれば一次的なそれらと変るところはないが、そう見なして片付けてしまうとせっかくの得難いパラダイムが拡散霧消してしまう。

 それは茂木健のそれにもいえて、一次的に平に均してしまえばせっかくのクオリア(科学的分析できないものごと)が、その仮想が輝きを失ってしまう。ほかに名前の出ている方々から借りてきたシーニュも多かれ少なかれ同じこと。

 そもそもOHZAPPAというエクリチュールで表出しようとしていることは、吉本隆明の共同幻想とはこうこうしかじかで養老孟司の唯脳論はああだこうだとかいうことではなく、方々のポイント・タームのシニフィアンを若干だけのシニフェと共に無断で借りてきて(泥棒という人もいる)一個人のラング体系の中に投げ込むことにより、ラングのmyWeb環境の変化を楽しもう、その過程を指示表出してみようという試みなのだ。したがって、元祖か本家のターム自体の内包はより貧相になるのは当然だし、それは改変散布ということだから泥棒とは別の権利侵害もあるという人(団体)もいるようだが、それには小島よしおにバカの壁(そんなの関係ねえ!)を作ってもらって対処しよう。害虫駆除剤を使うよりは環境にやさしい。

 星々へのラング網の投げかけがコンステレーションなら、投げかけるそれは言わずと知れた無意識層で、その布置momentarily constellated を読み取る(意識化する)のは自我なのだろう。理想的には自己だが、それは不可能としか思えないので、なるべく自己に近い自我か。いや、この文脈ではまずいので、言い換えたい。

 クリステヴァとは逆向きかと思っていたが、同じだった!

 自分も星座の一つに入っていることが大切、と河合隼雄。

*まず個々の私的幻想があり(なんとなく)それらが集まって共同幻想ができあがると思っていたが、これは「卵が先か鶏が先か」を思うようなことだった。典型的あるいは根源的な共同幻想は言葉なのだから、σ(゚Д゚*)たちの心象にはまず共同幻想が起ち現れ、さまざまな共同幻想とネットワークして私的幻想化する。

 そうした私的幻想β版が共同幻想β版化を求めてパロールへと向かう。

* 唯言論・共同幻想…河合隼雄のこの言葉で言い尽くされている↓

 「あなたたちは、ひょっとしてこの机や椅子のことをリアルと言っているんじゃないか。日本ではこれらをイリュージョンと言ってます。(笑)

 ターム→ミクロの共同幻想  分り易くone単語のシニフィアン/シニフェ→ミクロというより基礎の共同幻想 ある単語×単語=内包と差異の増大(外延と同定の増大)ん?逆か?対義語とは最対極の類似後だし。 一つの言葉を了解するということは、自身のラングをコンステレーションしてその網にかかったということ 投げかけるそれは言わずと知れた無意識層で、その布置momentarily constellated を読み取るのは意識であろう。ラジオ受信のチューニングの例(養老の脳内過程)(茂木は、言葉の意味の了解はタッチポイントの総体で決まると)  ☆シニフェorシーニュの交差減数分裂

 自己表出/指示表出は「的」で使えるタームと思っていた→中ための社会科にそれが。また、共同幻想のことを「呼び方は観念といってもいいしなんでもいい」 やはり、「的」でよかったんだ(p_-)

 自己幻想?(・ω・ノ)ノ共同幻想( ^^) _旦~~そのまんまだったり逆立ちしたりでんぐりがえしもするだろう

 Ozappaの半分くらい又は全てが「自己比喩」へ。

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