錯 乱 の 森
  
  かの錯乱の森には昼と夜とがありまして、
  昼には、ありとあらゆるものを乾涸びさせる巨大な憎悪の熱塊が、
  狂気のように照りつけ、
  夜には、生きとし生けるもの総ての血を凍らせ、
  否応なく恐怖の眠りにつかせる虚無の暗黒が訪れ、
  悠久の歳月、森を支配しているのでありました。

 毒々しい色彩の鬱蒼とした潅木の蔭で男の眼が輝いた。
 獲物! 瞬間、男(霊長類ヒト科・オス)は飛び出し、この森で最も弱く、
常に悲しそうな眼をしている哀れなテンダー(有蹄類馬科)の喉笛に喰らいつ
いた。抵抗はつかの間だった。
 男は獲物の柔肉を鷲掴みに引き千切り、貪り食った。喉を鳴らし憎しみを
滾らせ血しぶく肉塊を呑み込んだ。すぐさま犠牲者の恨みが毒と化し、胃壁を
刺激した。が、男の憎悪はそれよりも遥かに強く、たちまちのうちに毒を中和
させ、掻き消していた。
 恨みと憎しみの格闘にも似た食事の後、疲労した男は食べ残した獲物の傍ら
に蹲った。
 一時の後、眠っている様に見えた男の五感がピンと張り詰めた。覚えのある
匂いが微かに鼻腔をくすぐった。獲物! 男は身を翻し、第二の獲物に躍りか
かった。
 虚をつかれ、たちまち男に組み伏せられた女(霊長類ヒト科・メス)は、
すぐさま激しい抵抗に移った。猛烈な格闘が始まった。体力では男が優ってい
たが、男の目的が女の命を奪わずに交尾することにあり、女はその状態から逃
れる為に全力を挙げて男を攻撃するという関係から、この森での男女の戦いは
熾烈を窮め、男達はしばしば命を落とした。しかし、この戦いに勝利した男達
だけが、自分の子孫を残すことができた。
 女の抵抗が止んだ。男の力が優った。男は呪いを吐き出す様に乱暴に目的を
果たした。交尾の間、女は憎悪を剥き出しにした眼で、ひたすら虚空を睨みな
がら虚脱した身体を横たえていた。
 男は女の身体から身を起こし、横たわったままの女の姿態を見下ろした。傷
だらけではあったが、しなやかな肉体が泥にまみれて転がっていた。交尾した
女の肉体には本能的に食欲はわかなかった。反対に、交尾した女から食料にさ
れる危険性は男の側に充分ある。早々に立ち去らねばならない。
 その時、急激に日が蔭った。夜!男はうろたえた。暗黒の恐怖がやってくる
ーーー光を奪い、血を凍らせ、否応なしに虚無の束縛に捕える黒い魔王がやっ
てきた!!
 男は脱兎の如く駆け出した。女の傍らから一歩でも遠去からねばならない。
この森で二匹の動物が共に眠りに落ちようものなら、黎明に目覚めが一瞬でも
遅れた方は、たちどころに相手の餌食となる運命だ。男は疾走したまま生い茂
る羊歯植物の藪に飛び込んだ。同時に、森の総てが漆黒の闇に閉ざされた。
虚無の夜が訪れた。

 一条の鋭利な刃が深黒のビロードを切り裂き、真っ赤に煮えたぎる溶鉱炉が
現れた。朝。狂気の一日が始った。
 目覚めた男は弾ける様に跳び起き、身構えた。過酷なまでに全神経を張り詰
め続けることで、また今日も一日生き長らえる可能性がある。すぐに激しい空
腹感に襲われた男は、昨日の獲物の残骸を思い出し、茂みの中を素早く音もな
く移動して行った。
 獲物はそのままにあったが、男は低く唸った。昨日の女がテンダーの屍の傍
らにいた。
 男は憤怒の叫びを上げながら、獲物の上に蹲っている女めがけて躍りかかっ
た。次の瞬間、女の頭上で二つの物体が激しく交錯した。
 男がテンダーの残骸と女の姿を見つけた時、もう一匹の動物ーーー森で最も
凶暴残虐な肉食獣キャピタル(門綱目科属・不明)が藪の中から女を狙ってい
た。女は猛獣にねめつけられ身動きも出来ず餌食になる寸前だった。
 唐突に思いがけない相手とぶつかったキャピタルと男は、うろたえる間もな
く凄まじい格闘を始めた。
 砂塵を巻き上げ、潅木を押し潰し、茨の叢をなぎ倒しながら、相手の肉を引
き裂き喰い千切り、みなぎる憎悪を噴流の様に吹き出して、地面を空中を弾け
回った。キャピタルの腹から血が迸った。男の片耳が千切れ飛び、大腿部の肉
がクレバスのように深く抉り取られた。男の筋肉が瘧にかかった様に震え、悲
鳴を上げた。骨が軋む音。男の鎖骨が鈍い音をたてて折れた。その拍子に鉄鉤
の様な前足が男の肩から外れ、一瞬、猛獣の力の均衡が崩れた。男は機を逃さ
ずむしゃぶりついた。キャピタルの喉笛が噛み砕かれた。
 ヅタヅタに引き裂かれた身体を引き摺って、勝利者は一刻も早く逃げ去ろう
とした。強敵には勝ったものの、男は衰弱しきった身体で今度は女の攻撃を受
けなければならない。容赦ない弱肉強食の自然。
 女の足が男の目の前に止まった。男は観念した。死の予感。
 しかし、いつまで経っても女の攻撃はなかった。男は薄れ行く意識の中で怪
訝に女を見上げた。女も男を見下ろしたまま、どうしたら良いのか判らないと
いった面持ちで不思議そうに男の顔を眺めていた。
 男が呻きながら意識を取り戻した時、女は数歩離れた所に膝を抱えて蹲り、
男の姿を見詰めていた。こんな状態にありながら、自分が未だに生き長らえて
いるという事実が、男にはどうにも解せなかった。
 やがて男は、女の傍に置いてある数個の果実に気付いた。途端に男は猛烈な
空腹感に襲われた。深手を負った男の身体は激しく食物を欲していた。本能の
赴くままに、男はその果実に躙り寄って行った。すぐに男の目的を察したらし
く、女は足元から果実を取り上げた。男は力なく首を垂れた。
 だが、続いて信じられない事が起こった。
 うなだれた男の目の前に果実が現れた。驚いて顔を上げると、女が幾つかの
果実を男の前に置き、すぐに元の場所に戻って行った。
 有り得ない事が起こった。この森で、一個の生物が、他生物に食物を与えた。
 男は奇跡に呆然とする間もなく、憎しみを奮い立たせて果実にむしゃぶりつ
いた。男の眼が大きく見開かれた。これはなんだ!この果実には毒が無い。見
慣れた何の変哲もない果実だったが、森のあらゆるものが他生物に餌食とされ
る時には必ず発散させる、犠牲者特有の悍しい呪いや憎しみから生み出される、
あの強かな毒が無い。いつしか男は憎悪も忘れ、生まれて初めて味わう甘美な
食事に酔い痴れていた。
 暫く経ってから、女は男が殺したキャピタルの屍から柔肉をむしり取り始め
た。幾許かの肉塊を抱えて女は戻って来ると、半分の肉を男の目の前に投げ出
した。そして、少し離れた場所に座り込むと、男を一瞥してから残りの肉に齧
り付いた。女は顔を歪め、苦しそうに身悶えしながら肉片を呑み込んだ。
 やはり女の体力では、キャピタルの肉から湧き出す猛毒に耐えるのは容易な
ことではないらしい。女の様子を眺めていた男は、与えられた肉塊を手に取る
と、それを見詰めた。漠然とした予感を覚えながら、男は肉を口に運んだ。
すぐに男の眼が満足そうに輝いた。そして、次々とキャピタルの肉を何の苦も
なく平らげ始めた。
 ふと、顔を上げると、女が目を丸くして自分を眺めていることに男は気付い
た。女は、とうに自分の食事は諦めている様子だった。それを見た男は、女の
持っている肉を指し示し、寄こせという様に身振りした。女は従順に男の要求
に応えた。
 何事かを確信した表情の男は、女から受け取った肉を二つに引き裂き、その
半分を改めて女に差し出した。女は顔をしかめて首を振った。だが、男は強引
な仕種で女に肉塊を押しつけ、食べろ、という様に促がした。
 女は、恐る恐る肉片を口に運んだ。途端に、女は驚きの表情で男の顔を見上
げた。そして、歓喜の声を上げながら、勢いよく肉塊を頬張り始めた。そんな
女の様子を、男は満ち足りた思いで見守り続けた。
 それは、怒りと憎しみの類の感情しか持たない森の生物達の中にあって、
まったく初めての、新しい感情が生まれた姿だった。
 誤解から生まれた新たな感情は、しかし、真実には違いなかった。
 この森においては夢想だに出来なかった、奇妙な一組の共同態が現れた。男
と女は泉のほとりに巣を作り、共に狩りをし、仕事を分担し、定住生活を始め
た。
 その男と女は、お互いの固有性を鮮明に認識することが出来た。女は、その
男を漠然とした男という観念から離れて、それを例えば「希(ネガイ)」とい
う様に象徴的に認識した。男もやはり、女という大まかな印象から、その女の
固有性を唯一無二に認識していた。その象徴を例えば「望(ノゾミ)」と。
 二人の間に芽生えた新しい感情を礎に、信頼、尊敬、期待、奉仕、寛容、
その他諸々の感情や観念が次々に生み出された。与えられ、そして与える喜び
を知り、やすらぎを知ることにより、灼熱の昼も平静に過ごし、暗黒の夜さえ
も恐れなくなった。生さえをも、憎しみ呪いながら阿鼻地獄を彷徨わなければ
ならない森の生物達の中にあって、この一対の男女だけが、生を悦楽し、嘉し
た。望の胎内に小さな生命が燈り、逞しい成長の手応えが日増しに感じとれる
様になった頃、幸福は頂点に達していた。ーーーー破局はその時訪れた。
 二人の前に女が現れた。刹那に、希の男の本能が目覚めた。新しく培われた
諸々の感性は、本能を抑え込むにはあまりにも根が浅すぎた。望との間に結ば
れていた新たな感情の絆は断ち切れ、弦から放たれた矢の様に、希は別の女を
追った。背後に悲痛な叫びを残して………

 数夜後、希は沸き上がる怒りと共に森を疾駆していた。深い悔恨と、己れに
対する怒りにかられ、一刻も早く懐かしい女の許へ戻りたい一心だった。本能
の赴くままに新しい女を追い、捕えてはみたものの、味わったものは途惑いと
幻滅だった。新しく知った感情の交わりの欠けた交尾の虚しさ、怒りと呪いと
憎しみだけの世界の恐ろしさを、はっきりと意識し得ただけだった。希は、反
省と身を焦がす恥じらいを知った。今はただ、すまないという気持ちと、一刻
も早く望の許へ帰り、これまで以上に、望を慈しみ、大切にしたいと願うばか
りだった。
 二人の巣に、望は居なかった。希はオロオロと巣の周囲をうろついた。泉に
もいなかった。藪をかき分けて探したが、生き物の気配さえなかった。希は落
胆の足どりで巣へ戻り始めた。一縷の望みを抱いて、希は、二人で築いた巣で
待ち続けるつもりだった。自分がそうした様に、望も必ず帰って来ると信じて。
その時、何かにつまずいた。 
 それが、望だった。喉笛を喰い千切られ、片腕はもがれ、全身を無惨に引き
裂かれてはいたが、確かに望の屍だった。
 希は、まだ血の乾き切らぬ亡骸の傍に途方に暮れて座り込んだ。望の死に顔
には憎悪の歪みも無く、意味の知れない表情が、希の胸に沁みた。望の頭をも
たげて揺すった。何の反応もなかった。
 残された望の片腕をとり、自分の胸に当ててみたが、手を離すと、ポトリと
落ちた。
 希は屍というものを初めて見ていた。希がそれまでに目にして来た生の無い
肉体は総て、屍ではなく食物だった。殺害の為の殺害、食欲の無い時にでも目
に触れた生物は総て殺害する習性のキャピタルに、望は殺されたに違いなかっ
た。希と望はキャピタルによって結ばれ、キャピタルによって永遠に引き裂か
れた。望の引き裂かれた腹の中には、血と臓物にまみれて、首の無い胎児が
あった。
 希は望の死を理解した。二度と目覚める事のない虚無の暗黒ーーー死ーーー
を理解した。
 希は望の躯から燃え上がる炎の様に立ち上がった。怒りと憎しみの巨人の足
取りに、踏みしだかれた雑草は焦げるように萎えた。もの憂げに動めいていた
樹々や蔓は、凍る様に動きを止めた。
 希の目の前の茂みが微かに揺れた。闇雲に、希は跳びかかった。動きの鈍い
テンダーは声の無い悲鳴を上げて倒れた。希は無抵抗な動物の息の根を一度に
は止めず、四肢を掻き裂き、なぶり殺した。血の海の中で、希はテンダーの腹
の肉をむしり取り、喰らいつこうとした。希の動きが止まった。
 腹の中にはテンダーの胎児がいて、ヒクヒクと痙攣していた。そして、たっ
た今、自分が殺したテンダーの虚ろな瞳の光は、死んだ望と同じものに見えた。
 希は嘔吐した。身の毛もよだつ悲鳴を上げ、狂った様に走り出した。おうお
うと引き攣れた叫びを上げながら、ただ疾駆した。得たいの知れない衝動のう
ねりが胸の奥で荒れ狂い、爆発と崩壊を繰り返した。獣路を、密林を、沼地を、
己れの影から逃げる様に遮二無二駆け狂った。脚は切れ、堅い茨で裂かれ満身
傷だらけになりながら、得体の知れないものに責め苛まれ、ただ、苦しみ、
悶え、走った。

 走り続ける体力も尽き、希は漂い歩いていた。胸の奥に、熱く、冷たく、交
互に疼く塊をどうすれば良いのか、希には為す術もなく、ボロボロの身体と心
を引き摺り歩くだけだった。放心の眼からは、夥しい涙が溢れ出ていた。見慣
れた赤い血とは違い、拭おうが、掌で押さえようが、それは視界を滲ませなが
ら次から次へと流れ続けた。希は、身内から湧き上がる透明の液体を、尽きる
ことのない泉の様に流れ落ちるにまかせた。そうしていると、胸の奥を埋め尽
くしている狂おしいばかりの苦痛も、少しずつ押し流されて行く様だった。
 やがて希は、たわわに実をつけた一群の樹木の前にやってきた。何気なく見
上げた目の前の梢には、見事に熟れた果実が灼熱の陽を背景に怪しいまでも
美しく輝いていた。
 希は思い出していた。望から与えられ、初めて味わった甘美な果実を。それ
は、つい今しがたの出来事の様にも、遥かな遠い昔の出来事の様にも感じられ
た。あるいは、あれは焦熱の陽に照らされた刹那の白昼夢にすぎなかったのか
も知れない。
 希は無意識に果実をもぎとり、束の間、懐かし気に眺め、そっと、いとおし
く口に運んだ。
 一瞬、希はきょとんとし、不思議な物を見る様に手に持った果実を見直した。
続いて、低く呻きながら胸を掻きむしった。果実の毒が希の内蔵を冒し始めて
いた。掌から果実が転げ落ちた。希は二、三歩よろけ、崩れる様に倒れた。
苦しみながらも、なんの憎悪も呪いも起こらない希の身体は、果実の微弱な毒
にさえも抵抗することが出来ず、なすがままに蝕まれた。
 希は理解した。自分が、もはやこの森に生き続ける資格を失っていたことを。
そして、餌食になる為だけに生まれて来た様なテンダー達の瞳の光を、殺され
た望の瞳の光を。今、自分の瞳にも、同じ光が湛えられているのだ、というこ
とも………
 苦しみ喘ぐ希の意識の中には、望との結び付きによって初めて得られた、
そしてそれに触発されて生み出された諸々の新しい感情が渦巻いていた。それ
らの感情が自分の生命力を失わせたことに希は気付いていたが、もとより、
恨みも憎しみも起こりはしなかった。
 あれは、なんだったのだろうか。なんの為なのだろうか。二人の間に芽生え
た、あの心地よい満ち足りた新しい感情は…………。
 希は、喘ぎながらも半身を起こし、森の総てを見渡すかの様に、ゆっくりと
四方を見上げた。
 その時、奔流の様に、最後の新しい感情が生まれ、瀕死の希を打ちのめした
ーーーーー孤独。孤独だった。
 あの焦熱の憎悪、狂気の熱塊、黒い魔王、虚無の暗黒よりも数層倍のおぞま
しさ、恐ろしさに、希は身震いし、そのまま、くずおれて息絶えた。
 森は何事も無く、ただ灼熱の陽と妖気のみが澱む中に鬱蒼とそびえていた。

 かの錯乱の森に露の様に芽生えた、あの新しいものは何だったのでしょう。
 同情、思いやり、の様なものだったのでしょうか。あるいは、あれこそが、
 愛というものだったのかも知れません。それとも、希と望の間に次々と生
 み出された諸々の新しい感情は、それらのひとつひとつは、孤独というも
 のを織りなす一筋の細い糸にすぎなかったのでしょうか。
 どちらにしろ、森の調和を乱す束の間の 希 望 は、その宿命に忠実に
 消え、かくして錯乱の森は何処の地の奥深く、未来永劫に渡って繁茂し続
 けて行くのでありました。            めでたし めでたし

                     昭和50年5月作ごごれいじ

           explanatory notes