Asian Field Music 2

 

音楽好きなもの同士の他愛のない話題でよく出るのは尊敬するミュージシャンは?、好きなギタリストは?、である。
私が名を上げる人には共通点があり、もうこの世にいない人たちばかりである。
死んだから好きになるわけではないけれど、好きなミュージシャンが死んでしまうと一段とそのプレイや作品について思い入れは大きくなってしまう。

音楽は単なる音の羅列でもなく、空気の振動でもなく、その個人の生きざまや演奏されたときの背景、私自身がその音楽に接したときの気持ちや状態によっても大きく変わってしまう。だからこそ、その音楽を作り上げた人が亡くなってしまうことが、その音楽に対する思い入れに影響するのは当然かもしれない。

1995年の1月17日(阪神大震災の日)に亡くなった一人のすばらしいギタリストがいた。
美山鉄三という人だ。
おそらく知っている人はほとんどいないと思うが。
私が大阪にいた頃、もう10年以上前のことだが同じバンドで1年ほど一緒にプレイした人だ。
髪が長くルックスも如何にもミュージシャン、という雰囲気の奄美大島出身のギタリストだ。
ただ性格のほうは超がつくほどシャイな人で、ほとんど喋ることなく、エラぶっているわけでもなく、話しかければはにかみながら笑いはするものの、自分から話題を提供することはまずない人だった。
女性に対しても興味を示さないというか、自信がないのか、縁もなく、アセリもない感じだった。(もてそうな雰囲気だったのに)
口の悪い友人は、あいつは女に騙されひどい目にあってああなったのだろうとか、ソノ気があるので女に興味がないんだろうと、いろいろ言っていたものだった。

しかし演奏となると、終始うつむき加減ではあったがそのプレイはすばらしかった。
ブルーススタイルやギンギンのロックは当然としても、ジャズっぼいフレーズや5連符、7連符というトリッキーなものまで自然に出てきていた。ギターはまだ当時大変高価だったフェンダーのストラトキャスターを持ってはいたが、音が気に入らないらしく1万5千円で買ったグレコのSGモデルをいつも使っていた。エフェクタはほとんど使わないが、骨太で美しい音をいつも出していた。
私もこれはかなわないと思っていたが、彼はうまく私を立ててくれて実力以上のものを引き出してくれるという、キャパシティも持ち合わせていた。

彼がバンドを去ってからずっと音信不通だったが、ある日パチンコ屋で働いているという話を聞いた。
話してくれた人が言うには、彼は全く180度人間が変わり、見違えるほど明るくなったという。
年上の女性と結婚し子供もいてギターは弾かなくなったということだった。すばらしく幸せそうでいつもペンダントにかわいい子供の写真を入れ、俺はこの子のために生きている。子供や奥さんがすべてだ、と言っていたという。

わたしはその話を聞いてやっとわかった。彼が故郷の話をしたがらなかったのも、自分自身のことをあまり喋らなかったのも。おそらく彼は子供の頃からずっと愛に飢えた生活をしていたのだろう。そのフラストレーションなり寂しさなりが、ギターに走らせていた原動力で、音楽の才能があった彼はメキメキ上達し、自分には音楽しかないと思い続けていたのだろう。それが奥さんと知り合い、子供ができて愛を得て、もうギターを弾く必要がなくなってしまったのだろう(あるいは弾けなくなってしまった)と。私にとっては少し残念ではあったが、彼にとっては本当に一番良かったことになったのだろうと安堵していた。それ以来私も東京に引っ越したこともあり、彼の噂は聞かなくなってしまった。今回の地震が起きるまでは…

ほとんど即死の状態に近かったらしい。もっとも被害のひどかった地域に居合わせていた。
無念なのは彼の家はほとんど被害のない地域にありながら、たまたまその日だけ、仕事場に泊まり込んでいたことが、彼と愛する子供、奥さんとを引き裂いてしまったことだ。

今回の地震では6000人以上の方々が亡くなったとのことだが、当然その一人一人には人生のドラマが、幼少のころの思い出が、つらさやよろこびがある。私の知る美山君は、もちろん彼自身のことのほんの少しでしかないはずだ。しかし彼の残した数少ない演奏テープを聴くと、そのすべてがよみがえる。彼の想いをはき出すように演奏に打ち込んでいた彼の姿を。

美山君は35歳で彼の人生を終えてしまったが、私は彼の演奏を忘れない。彼の奥さんや子供たちの心の中にも彼は生き続けている。

阪神大震災で亡くなった方々

ガレージ・ランド6 1995年9月版に掲載されました

この文章は1995年の阪神淡路大震災にて亡くなった友人を偲んで書いたものです。
文中の語彙、数字は若干訂正が加えられています。
文中の美山鉄三は美山徹三の間違いでした。お詫びして修正します。(2018/3/8)

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