Asian Field Music 5
瀬沼孝彰さんが1996年8月28日に亡くなり、その後「夢の家」が出版された。 いずれもこのガレージランドに深い縁のある方たち。私の心の中に深く刻まれた方たちだ。当ガレージランドの出版にあたりちょうど原稿を書こうとしていたときに梅田さんの病を聞き、その旅立ちの瞬間までなんと短く、また長く感じたことだろう。 ・・・・・・・・・・・ 音楽にはどのような力があるのか? これだけ音楽に溢れた時代は一体いつのことからなのだろう。蓄音機の発明以前は音を保存し再生することなどありえなかった。音楽は生演奏以外にはありえないものだった。絵画や文学と異なり特異な表現形態といえる。楽譜に残すことは可能だったが実際の音は生演奏でしかなかった。約100年前のエジソンによる蓄音機の発明と普及、そしてラジオ放送によって多くの人が同時に聴ける仕組みが成り立ち、音楽媒体もレコードからテープ、CD、MDそしてデジタル化した。再生装置の普及で影響が大きいのはカセットテープによるものと思う。安価で大量の音源、使いやすさ、さらに持ち運べて個人的にいつでも聞けるという音楽に対するライフスタイルに大きな変化が起こった。 文字のない文化はあっても音楽のない文化はない。どのような国の人にとっても音楽はなくてはならないものである。なぜこんなに音楽は素晴らしいと思えるのだろう。こんなに我を忘れのめり込んでしまえるのは一体なぜなのだろう。これは人類共通の思いだと考えたい。 音楽には言葉がいらないため世界共通語としての期待があった。音楽によって国境を越え意識がひとつになれば素晴らしいのに・・・そんな期待である。だからこそ音楽による平和を願いたい。 国境を越えるのは人間の本質に関わることでなくてはならない。人間にとっての共通の概念からこれに関わるなにかを見いだせなくてはならない。 風土、文化に関わっていては共通性は見出せない。互いの文化に対し理解を示し、寛容であることを前提とすること自体もすでに共通の概念からはずれてしまうものなのだ。宗教はその成り立ちが風土と文化が基本になっている以上論外だ。哲学でも無理だ。論理的であること自体も、神秘主義的であることと相容れないことになるからだ。 恐らく人間の生理的ともいえる欲求に基づいたものでなければいけない気がする。根源的欲求に基づくもの、例えば食欲、性欲、生死に基づくもの、名誉欲(他者から認められたいと思う気持ち)生命の維持に必要な睡眠、愛しいと思うものに対してそばにいて欲しいという感情。音楽に対する共通性もこのレベルまで立ち返って考えておかないといけないと思う。 以前から音楽の根源に対する考察はあったが、生物学的な音楽の起源として、大変興味深い考え方がある。音楽を生理的な角度からとらえたものだ。音楽を聴いて感動するということは、そこにホルモンが関わっている可能性がある。テストステロンというホルモンはドーピング検査でも有名な男性ホルモンであり、筋肉の増強、攻撃性の元になるもので男性に比べ女性には分泌量が大変少ない。 音楽を演奏する、聴くことによりテストステロンの分泌に影響を及ぼすのではないかとの考えがある。男性にとっては音楽によりテストステロンの分泌が減り、女性にとっては音楽によりテストステロンに分泌が増えるという実験結果があるそうだ。 音楽によって男性のテストステロンが減少することにより、攻撃性が減る、一夫一妻制が容易になる、それによって安定した社会性に寄与できる、もっとはっきり言えばこれによって争いの少ない世界になる可能性があるのだ。平和になるためにはきっと音楽が必要であるにちがいない、そんな希望を抱かせる内容だ。 私は人間が知らず知らずのうちに音楽という麻薬によって、ホルモンを調整し世界を安定させようとする力が働いているのだと思いたい。男性が女性化し、女性が男性化することは平和への道なのかもしれない。 ガレージ・ランド12 2008年12月版に掲載されました |