見えない真実

    
 それは突然のコトだった。バス停に並んでいた眞菜美の目の前で、柱に向かって男の子
が強烈なパンチを繰り出し、叩きつけた。その一瞬の出来事に眞菜美は唖然とし、すこし
頭の中がパニックになりそうになった。
  晴天の初夏。空は吸い込まれそうなぐらいに青く澄み切って、はるか上空にかすれそう
な雲が数個浮いていた。眞菜美がようやく冷静さを取り戻した頃、バス停にバスが到着し、
その男の子もそのバスに乗り込んだ。
  その男の子、いや、男の子という表現はよくないかもしれない。もう成人はしている感
じだし。で、その彼は席に座ると、腰に巻き付けているポーチの中から手帳をおもむろに
取り出し、手帳を開いた。
  手帳のページをめくっていくと、今度はポーチからボールペンを取り出し、なにか書い
ていた。そして、また再びボールペンをポーチに戻し、手帳を見ていた。
  そんな彼の様相を後部の座席からしばらくぼんやりと見つめていた眞菜美だが、バス
停でのコトが引っかかっていたこともあり、意を決したように立ち上がり、歩を彼の座ってい
る座席に近づき、すこし遠慮気味に声をかけた。
「あのー……」
  けれども彼は、その言葉には気がつかないような様相で、手帳を黙々となにかに捕り憑
かれたように読んでいるようだった。眞菜美はその様相にすこし身を引いた感じだったが、
息を一度呑んで、さっきよりすこし大きな声で言った。
「あっ、あのー!!」
  その声にようやく彼は気がついたようで、手帳から目を離して視線を眞菜美に向けると、
指で自分を指し、尋ねるように丁寧に言葉を並べた。
「あ、私ですか?」
「えっ、ええ……」
眞菜美にはその対応は急に感じたようで、すこし戸惑ったように返事した。
  すると、彼は手帳を座席の上に置き、両手をひざの上において、また丁寧に言葉を並べた。
「なんでしょうか?」
「あっ、あのー、手は大丈夫ですか?」
  すこし戸惑いを残したまま眞菜美が質問すると、彼はその言葉に対してなのか不思議そう
な顔をした。そして、両手の掌を見つめ、片方ずつ腕を上げて、彼は左右をキョロキョロした。
  まるでなんのことを言われてるのかわかっていないようなその様相に、眞菜美は思わず声を
荒げた。
「そっ、そっちじゃなくて拳ですよー」
  彼は言われるがまま手を裏返し、拳を見た。
「おっ。擦り剥いてるみたいですね。どうしたんだろ?」
「どっ、どうしたんだろって……。さっきバス停のトコで柱をパンチしたトキじゃ……」
その言葉に眞菜美はすこし驚いたように言った。
  すると、彼はすこし考えるような素振りをしてから、不思議そうに呟いた。
「そんなコトしてましたっけ?」
「えっ……?」
眞菜美は戸惑った。
  彼はそんな彼女の態度に気づいたのか、言葉を続けた。
「あ、じゃあ、そんトキにやったんですね。どうもありがとうございました」
立ち上がって、彼は深々と頭を下げた。
「あ、いや、別に私は……」
頭を下げられた眞菜美は困惑して、そう言った。

 彼は立ち上がったまま座らずに、吊革を持って立っていた。視線は外の風景を見ている
ようであった。それほどバスが混んでるというわけではなく、座席を含め、バスの中の空間
はガランガランに空いているのにかまわず、彼はそうして立っていた。眞菜美の座ってい
る座席のすぐ脇で。
 そんな彼が気になって眞菜美はすこし恐縮したように、いった。
「あのぉ……、座らないんですか?」
 その言葉が彼の耳に届いたのか、彼は視線を外の風景からはずして、自分を指差し、
聞き返してきた。
「あ、僕ですか?」
「えっ、ええ……」
眞菜美はすこし苦笑いしているような顔をして、応えた。
 バスには眞菜美と彼以外にも乗客は乗っていたが、運転席の近くにすこし歳を召したお
ばあさんがいるぐらいで、ほとんどは一番後ろか、その手前の後部に座っていた。だから、
眞菜美の座っていた席の前後を含め、付近には彼以外いなかったのだが……。
 けれども、彼はそんな眞菜美の心の戸惑いにまるで気がついていないように、普通に答え
始めた。
「あ、立ってる方が身体にいいんですよ。バランスを鍛えるのにもいいですしね」
「身体、鍛えてらっしゃるんですか?」
その答えに眞菜美はさらに戸惑いを覚えながらも、言葉を返した。
 すると、彼はなにを思ったのか、その場でスクワットを始め、言葉を足した。
「やっぱり、普段から鍛えておかないと、いざというトキに大変ですから」
「そっ、そうなんですか。ははは……」
返す言葉を失った眞菜美は力なく笑った。すると、彼も合わせるように笑い声を上げ、
言った。
「おもしろいですか?」
「おもしろいっていうか、ちょっとヘンかな?」
愛想笑いと共に眞菜美はいきおいで言葉をこぼした。
 彼はその言葉に対し、すかさず反応し、笑った。
「よく言われるんですよね〜」
 一瞬、動きや表情が止まったかのような眞菜美もすぐさまその笑いに合わせて笑
った。笑ってもいいのかな、と誘われたかのように。

 すぐ真横でスクワットをゆっくりと続ける彼から視線を外して、眞菜美はすこし疲れた
ように外を見た。その時、初めて眞菜美はいつも見慣れている風景と車窓が違うことに
気がついた。あわてて立ち上がろうとしたが、ちょうど真横にいる彼に気がついて、眞
菜美は座り込んでしまった。
 追い打ちをかけるように、次の停車場を知らせるテープがバスの車内に流れる。その
聞いたことのない停留所の名前に眞菜美はショックを受けた様に前の座席に寄り倒れた。
「あちゃぁ……」
「どうかしたんですか?」
眞菜美の顔を覗き込むように彼は体を大きく横に曲げて、そう訊ねた。
 その声に、ふっと向けた眞菜美の目線の目の前に彼の顔があり、驚きと共にあわてて顔を
上げ、窓側にすこし仰け反った。そして、彼との間の空間を遮るように眞菜美は手を振って、
彼の疑問を打ち消すようにすこし笑みを浮かべて、いった。
「なっ、なんでもないですよ」
 彼はその言葉に安心したのか軽く笑うと、言葉を並べた。
「そうですか。では、僕は次で降りますので。お先に失礼いたします」
そう言って、彼が深々と頭を下げ、言葉を締めると、バスは鈍いブレーキ音を響かせ、止
まった。
 開いた前部のドアから彼は降りると、バスに乗っている眞菜美に向かって大きく手を振っ
ていた。バスが発車して、視界から消えるまで。ずっと。
 その一連の彼の行動を眞菜美はなにかに獲り憑かれたように漠然と目で追っていた。バ
スが停留所から離れ、遥か後方にかすんでいくと、眞菜美は肩の力が抜けたように座席に
埋くまった。が、その時になって、ようやく眞菜美は我を取り戻し、あわてた。
「あっ!私も降りるんだった!!」
 乗るバスを間違えていたのだから、さっさと降りて、戻るバスに乗らなければいけない
ことに落ち着いて考えられた瞬間に気がついたのだ。けれども、時既に遅し。バス停は
おろか、バス停のある場所でさえ、もう見る影もなかった。

 眞菜美はしょげたように肩を落として、ため息をついた。そして、大きくもう一度息をつ
くと、眞菜美は顔を上げ、気持ちを切り換えたような表情を見せ、髪をかき揚げた。その
仕草の最中、視線が先ほどまで彼のいた座席に向いた。と、同時に眞菜美の動きが止
まった。
 初夏の強い日差しがブルーのシートに明暗のはっきりした色をつけているその場に、
彼がひっきしりなしに見ていた手帳が置きっぱなしになっていて、たたずんでいた。
 あの彼がひしきりなしに見ていた手帳。眞菜美はなぜか気になった。
 その手帳に引き込まれるように眞菜美の手が伸びる。そのコトに眞菜美は後ろめたさを
感じながらも、自分を説得するように言葉を並べた。
(どーせ私は引き返さなきゃいけないんだし、その時にさっき彼が降りた停留所で降りて、
そこにあった大きな建物の人に預ければいいんだわ。この時間じゃもう遅刻だし、これは
神様からの「人には親切せよ」って啓示なのよ!)
 しかし、行為はその手帳を手にするだけでは満足せず、それを開いて、中を読もうとい
う誘惑に駆られていた。
 眞菜美の心の中の声がその行為を制止しようと語りかけてきた。
(ダメダメ、そんなコト!他人のものじゃない!)
 けれども、その声を納得させようと、眞菜美は小さな声を出して、自分に聞えるようにい
った。
「でも、ほんのちょっとだけなら……」
 すこし使い込まれた感のある手帳を眞菜美は裏表見ると、慎重にゆっくりと開いた。
カバーとの間に数枚の写真が袋に収められ、挿んである。しかし、眞菜美は敢えてそれを
取り出すことには躊躇いを覚え、それを無視するようにページをめくった。
「あ、あの人の名前かな……」
つたない字だが、名前らしきものが書いてあった。
「こ…、小塚裕昭さん、かな……?」

 一見、なんでもない手帳。1月1日からの月日、曜日、祝日が、1日ごとに分けられ、
そこにおそらくはその日の予定なのだろう記述が上手とは言えない字だが書き込まれてい
た。
 しばらくページをめくっていると、急に眞菜美は吹き出した。
「なんか日記か、わざと見せるように書いたみたい……」
 その言葉の示す書き込み、その日の些細な時事やワイドショーで見るような誰々の離婚
だの、細かく記載され、所によっては一コマ漫画のようなイラストが小さく書かれていた。
 眞菜美はつい読み入ってしまっていた。しかし、それを遮るように次の停留所を知らせ
る放送が流れ、その音に眞菜美は我に返った。
「あっ。降りなきゃ!!」
 メモを閉じて、自分のバッグにしまうと、手を窓の方にゆっくりと伸ばして、バスのチ
ャイムがぎりぎり鳴るぐらいに軽く体重を預けた。
 バスの中に音が響く。眞菜美は布団から起き上がるぐらいの力で身体を元の位置に戻す
と、両手で吊革を持ち、窓の外の視線を預けまま、楽しそうに身体を揺らした。