映画・雑記帳 H (03/11/14)

二歳頃から二十代終わりまで世田谷の喜多見(現在大蔵)に約三十
年住んでいました。

世田谷通りから五分ほど奥に入った所で、まだ一面畑でした。


世田谷通りに出たところには東宝撮影所があり、渋谷方向に五分程
歩くと新東宝の撮影所もあった。また、家から五分ほど奥の方に歩
くと東宝のオープンセットがありました。

昭和二十年代から三十年代にかけて数多くの作品が創られていたと
思います。


かすかな記憶にあるのは「蜘蛛の巣城」のラストシーンのワンカッ
トだと推測します。

当時は小学生、映画にも興味なく、侍が大勢いて(エキストラを使
った、最後森が移動するシーンではないか)面白いと思っただけで
した。

同じ事を何度も繰り返すので、すぐに飽きたようです。


世田谷通りから家までの道は年中馬と侍が往復していました。京都
と違い歴史的な雰囲気は無く、民家と畑の間に突然時代劇が出現し
たようでした。


子供時代の世田谷の外れはおもいっきり映画の街でした。と、云い
たい所ですが撮影所以外は普通の郊外。それもサラリーマン住宅は
皆無、小学校のクラス半分以上が近所の農家か商店の子供でした。

都心に近いわりには、その田園風景は昭和40年代までかなり残っ
ていました。


なにしろ世田谷通りに面して畑が有り、水車もあったんです。

そして、清水湧き出る沢があり、沢蟹までいました。
沢蟹のいた場所は後年大蔵団地(都営か区営かは不明)となり、農
地も一気に建て売り住宅に。サラリーマンの住宅地に変身。


新東宝は倒産、撮影所は国際放映に。もう少し渋谷よりの撮影所は
大蔵映画になりました。

いよいよ、テレビの時代に突入。

そういえばもっと昔、東宝争議もあったんです。
私は小さかったので、大勢の人が騒いでいるお祭りのような不雰囲
気しか覚えていませんが。


戦後の映画人には懐かしくも、哀しい想い出の街かもしれません。


そう、世田谷でも大蔵でもなく『砧(きぬた)』の撮影所と呼ばれ
ていました。


かつて『砧村』と云われていた土地なのです。


少年時代映画など全く興味のない頃に、映画と深いかかわりのある
街で育ちました。                         (fou

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