【戦艦ポチョムキン】
製作年 1925年、露
監督  セルゲイ・エイゼンシュテタイン
出演  アレクサンドル・アントーノフ グリゴーリー・アレクサンドロフ
【あらすじ】
 ポチョムキン号の水兵たちはウジ虫がたかった肉の塊をみて憤慨していた。そこに現れた軍医は大丈夫だとのたまい平然と去っていく。水兵たちには肉のスープが食事として出されるが、当然誰も食べようとしなかった。先任士官は乗組員を甲板に集め、スープを食べることを拒否した水兵を射殺するよう衛兵に命ずるが、水兵ワクリンチュクの呼びかけで衛兵は銃を下ろし、水兵たちは一斉に蜂起した。士官や軍医は海に投げ込まれるが、ワクリンチュクは先任士官から撃たれてしまう。
 ワクリンチュクの遺体はオデッサ港のテントに安置されたが、事件のことを知った多数の市民が哀悼のため押し掛けてきて、瞬く間に港は人で埋め尽くされてしまう。数多くのヨットが赤旗を掲げたポチョムキン号を取り囲み食料などを差し入れてくれ、市民と水兵の交歓が続く。
 港を見下ろすリシュリュー階段からポチョムキン号に手を振っていた群衆に向かって、突然コサック兵が発砲してきた。人々は逃げまどうが、男の子が撃たれて倒れ群衆に踏まれてしまう。半狂乱になった母親は子供を抱えて兵士の前に進むが無惨にも撃たれてしまう。若い母親も撃たれて乳母車が坂を転げ落ちていき、女の教師がサーベルで切られる。ポチョムキン号はこの残虐行為に対して艦砲射撃を軍隊本部に浴びせる。
 水平線の彼方に艦隊が現れた。ポチョムキン号は直ちに臨戦態勢に入り発砲しようとしたが、艦隊側の水兵が一斉に帽子を振った。彼らも反乱に同調してくれたのだった。
【解説】
 映画の歴史を語る上で本作品は欠かせない。特にオデッサの階段の虐殺シーンは、エイゼンシュタインのモンタージュ理論が十分に生かされており映画史上最も有名なシーンである。エイゼンシュタインは若い頃、日本語を勉強していたことがあり、複数の漢字を組み合わせて(たとえば山と上と下で峠)別の意味をなす漢字の構成からインスピレーションを得て、複数のカットを重ねて特定の効果を表現するモンタージュ理論に発展させたと言われている。
 第一次ロシア革命20周年記念としてソ連中央執行委員会がエイゼンシュタインに依頼して製作された本作品は、当初1905年に起きた「血の日曜日事件」など一連の事件を全て映像化する予定だったが、あまりにも長大になるということで、エピソードの一つだった戦艦ポチョムキンの武装蜂起のみが映画化されることとなった。戦艦ポチョムキンは撮影時にはすでに解体されていたため、廃艦としてかろうじて残っていた同型艦の十二使徒号や巡洋艦コミンテルン号が使われた。従軍神父役としてエイゼンシュタイン自身も出演している。
 プロパガンダ映画でありながら、映画を芸術の域まで引き上げたとして反共の欧米諸国でも高い評価を受け、渡米したエイゼンシュタインはチャプリンやディズニーなどハリウッドの名士たちとも親交を結んだ。プロパガンダという点では、ナチスの宣伝相ゲッベルスやイタリアのムッソリーニにまで影響を与えている。だが、まもなくスターリンが実権を握ると、エイゼンシュタインは苦難の道を歩み始める。解放された農村を描いた「全線」(29年)はスターリンが批判したため一部取り直しをさせられ、「ベージン草原」(37年)にいたっては上映を禁止された。海外での高い名声のため数百万人が犠牲になったといわれるスターリンの血の粛清は免れていたが、イワン雷帝の独裁と孤独を描いた「イワン雷帝・第二部」(46年)は同じような境遇にいたスターリンの逆鱗にふれ改作を命じられ、その作業中に心臓マヒのため亡くなった。まだ享年50才だった。
 戦艦ポチョムキン号の反乱事件が起きたのは、日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅したちょうど1ヶ月後の1905年6月27日のことである。ポチョムキンとは女帝エカテリーナ2世の寵臣(愛人でもあった)だったグレゴーリー・ポチョムキン公爵のことで、戦艦ポチョムキンが所属していた黒海艦隊の創設者でもあった。艦の排水量は12500トン、主砲は30.5p4門で黒海艦隊の中でも最新鋭の戦艦であった。反乱の後、艦は黒海をさまよったあげく、ルーマニアのコンスタンツェで降伏した。水兵の多くはルーマニアに留まり定住したが、一部の水兵は政府の説得を受け入れロシアに帰国したものの死刑やシベリア流刑といった厳しい処分が待っていた。
 日本での公開は戦前の軍国主義下では当然許可されず、戦後のアメリカ占領下でも上映できず、自主上映というかたちで日の目を見たのは1959年(昭和34年)のことだった。