〜これからの情報教育は、どうなるのか〜
2000.8.1
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情報教育を行う上で、最も重要なことは何か。それは、「思いやり」である。少し奇異な感じがするかもしれないが、機械としての情報機器には、人間に優しい機械にするためのさまざまな工夫がなされてきたという歴史がある。機械と人とをつなぐ部分を、「インターフェイス」という。
とはいえ、現在の機械たちが、本当に人間に優しい機械になれたかというと、そうでもなさそうであるというのが実感である。やはり、所詮機械は機械である。万人に通用する人に優しいインターフェイスを持つまでには至っていない。なのにどうして情報教育のテーマが「思いやり」なのか。
少し目を転じていただきたい。これまでの情報教育は、機械としての情報機器の活用を目的として、その機械やソフトウエアの操作を習得する、いわば「技術の教育」であった。しかし今日の情報機器は、インターネットを含むネットワークに関係して使用されることが多くなり、それを使う私たちも「他の人たちとの関係」を意識しなければならなくなった。そこで、重要になってくるのが「思いやりの教育」なのである。
技術的に「できる」ことと人道的に「やっていい」ということは必ずしもイコールではない。自動車も200キロ近くのスピードを出すことができるが、公道でそれをやってしまえば多くの人に多大な損害を与えかねない(この場合は法にも触れる)。 同じように、技術的には「できる」ことでも、思いやりという観点からは「やってはいけないこと」がある。今までの機械が完璧なインターフェイスを備えられなかったのは、機械は「できる」ことを目指すものであり、それを使う私たちが「やってはいけないこと」については自主的に制御することが求められているからである。
もっとも、機械の高機能化の中で、その仕組みを全部知らなくても使えるようなインターフェイスの研究も、かなり進んでいることは否定しない。また、「PL法」などの製造者の責任を問う法律もあることから、開発・製造者の側でも、「してはならないことをさせないインターフェイス」を作り出さなくてはならないという意識も定着しつつある。しかし、特に情報機器、中でもコンピュータは急速な普及とともに、やたらと「できる」ことばかりが取り上げられるようになってしまった。そこには、本来私たちが自制すべき「やってはいけないこと」までもが無批判に技術主導で行われてしまっているのが現状である。その行為は、時に反社会的、非社会的な行動にまで及んでいる。この状況から、情報教育における重要なテーマは「思いやり」であると考えるのである。
子どもたちが、様々な情報メディアから情報を得、それを咀嚼し伝えるとき、その根底に思いやりの心を持ち、他者への配慮や社会集団への配慮がなされるように教育していくのが、小学校情報教育の重要な役割であると考えるのである。
これから、人と人とを結ぶ情報教育の方向性を考えていきたいと思う。
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(1) 「情報教育研究協力者会議」第1次報告より
平成8年7月に行われた、中央教育審議会は、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」と題する答申を行った。その中で情報化と教育について推進すべきこととして、
の4点を示した。
これを踏まえて、平成9年10月に、情報化の進展に対応した初等中等教育における情報教育の推進等に関する調査研究協力者会議(略称:情報教育研究協力者会議)は、第1次報告「体系的な情報教育の実施に向けて」をまとめた。
その中で、情報教育の目標を次の3つの観点に整理している。
これらの観点を、小学校、中学校、高等学校のそれぞれの発達段階に応じて体系的に育成していくことについて提言されている。
(2) 「バーチャルエージェンシー『教育の情報化プロジェクト』」より
こうした一連の流れを受けて、文部省が平成11年12月にまとめたのが「バーチャルエージェンシー『教育の情報化プロジェクト』」である。これには、同年6月に行われたケルンサミットで採択された「ケルン憲章」の影響が色濃く反映されている。すなわち「『読み・書き・算数・情報通信技術(ICT)の十分な能力』の達成を可能とする教育が不可欠である」という主旨から、教育の情報化は、日本の教育における最重要課題と位置づけたのである。
「第1章 教育の情報化によって目指すべき目標」には、次の3点の目標が掲げられている。
この3つの目標の中で、特に小学生段階の到達目標として「小学校のうちに,すべての子どもたちがコンピュータ・インターネット等をごく身近な道具として慣れ親しみ何の抵抗感もなく自由に使いこなせるようにする」ことがうたわれ、「小学校のうちから子どもの発達段階に応じて,情報モラルに関する指導を充実させるとともに,豊かな人間性を育む『心の教育』も一層の充実を図る」ことが求められている。
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(1) 「小学校学習指導要領」より
平成10年7月の教育課程審議会答申から、完全学校週5日制の下、「ゆとり」の中で「特色ある教育」を展開し、幼児児童生徒に「生きる力」を育成することを基本的ねらいとし、次の方針に基づき改訂することが提言された。
この答申を踏まえ、平成10年12月に学校教育法施行規則を改定するとともに、幼稚園教育要領、小学校学習指導要領及び中学校学習指導要領が公示された。
今回の改訂では、この学習指導要領の総則に、五つ目の柱として「総合的な学習の時間」が創設された。小学校における「総合的な学習の時間」は、
をねらいとしている。これに続いて、「総合的な学習の時間」の活動例として、「国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題、児童の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題など」といった活動が例示されている。
また、「オ 指導計画の作成等にあたって配慮すべき事項」の中には、「e. コンピュータ等の情報手段の活用」と明記され、コンピュータや情報通信ネットワークなどの情報手段に慣れ親しみ、適切に活用する学習活動を充実することを示している。
ここで、前節の内容も踏まえて、小学校における情報教育の扱いについて考えたい。
小学校における情報教育は、言うまでもなく教科として独立したものではない。また、扱うべき内容が決まっているものでもない。これまでの報告、答申、学習指導要領などの内容に鑑み、各学校、各学級の実態に応じて適宜に扱っていくものという印象が強い。ここに、小学校情報教育の難しさがあり、その実践が多種多様になる原因がある。そこで、「小学校学習指導要領」の改定点及び前節の「情報教育の目標」から、情報教育の概念以下の図のように考えた。
ここでのポイントは、情報教育がある教科や領域に特化したものではなく、すべての学習活動や学校生活に関わってくるものであるという点である。これは、「情報教育の目標」の中で「情報活用の実践力」や「情報社会に参画する態度」に属するものである。また、全体に関わる「情報教育」とは別に、それに属さない「情報」もある。これは、「情報教育の目標」の中でも「情報の科学的な理解」に属するもので、多くは中学校技術科や高等学校情報科などにおいて指導すべきものと考える。つまり、小学校における情報教育は、あくまで全体に関わる部分が中心で、様々な学習活動・学校生活の中で実践的・体験的に活用されるべきものであるとの位置づけができるのである。
(2) How To UseからHow To Thinkへ
情報教育の一般的なイメージとして、「情報機器の取り扱いに堪能になる」ことを目指していると捉えられがちである。つまり、「How To Use」(使い方)の教育ということである。この考え方は、今までの「情報機器観」と密接に関係している。高度情報化社会と言われながら、今まで私たちの手に触れることのできた情報機器は、いかにも個人的で、相互の交流であるとか、人と人とのコミュニケーションなどというイメージとはほど遠いものだった。コンピュータも同様で、個人で購入するコンピュータはあくまで個人の道具でしかなかったのだ。
しかし、インターネットを含む情報通信ネットワークの普及により、今までは大学、行政機関など特別な人たちだけが使ってきた大規模なネットワークを家庭でも使えるようになった。それが、気軽で新しい情報通信手段としての機能を持ち始めたのだ。つまり、機械の向こう側にいる誰かと好きな時間にやりとりができるようになったのである。こうした現状から、今までの「情報機器観」は大きく覆され、機械とのやりとりに終始するような「情報教育」はほとんど意味をなさなくなった。むしろ、その中を流れる情報に対して的確に対応できる力を育てる教育が必要になってきたのだ。これが、「How
To Think」(考え方)の教育である。
このことは、情報教育のみならず、教師の役割をも変えかねない画期的なことである。大阪教育大学:田中博之氏によれば、「技術(technologies)から交流(communication)へ」「教授者(teacher)から仲介・調整者(coordinator)へ」と情報教育、教師の役割が変わってきているのである。このことを踏まえて、情報教育を含めたカリキュラム開発について論を進めたい。
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(1) カリキュラム開発の実際
前述の田中氏は、小学校における情報教育の場面を3つのEで表している。即ちExplore(探究)、Express(表現)、Exchange(交流)の3つである。これを平易な言葉で表したのが「調べてまとめて伝えよう」である。このそれぞれのEの中で、情報をどのように扱っていくかを考えることで、一つの学習の流れ(ユニット≒単元)ができあがる。しかも、この3つは独立して存在するものではなく、お互いが相関しあい、回転していくものであると考えるのである。
田中氏はさらに総合的な学習の時間のユニットデザイン(≒単元計画)を
という5つの型に分類している。これを先の3つのEと関連させてユニットを作成していくのが、現場にいる教師の役割と考えることができるのである。
〈参考文献〉大阪教育大学:田中 博之 編著
「ヒューマンネットワークをひらく情報教育」高陵社書店
(2) カリキュラム開発例
それでは、実際のカリキュラム開発はどのようになるのか。ここに、先進校の実践例を取り上げておく。
【大阪府守口市立春日小学校】
調査研究型・総合表現型・社会参加型・企画実践型・学校間交流型
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ここまで論を進めてきてわかったことの一つは、これからの教師の役割がcoordinatorであること、そして、coordinatorとして子どもたちの学習の方向性を仲介・整理・調整する役割を担うのだということである。その任を全うするためには、子どもたちの学習における興味・関心の対象を的確に把握することも大切であるが、教師自身がいかに多くの「情報チャンネル」を持っているかという点も大切である。そうでなければ、子どもたちの学習をcoordinateすることはできない。多くの情報チャンネルを持つということは、「○○をしたいときには××や△△を使えば(見れば、聞けば)いいだろう」という情報の入り口をどのくらい知っているかということである。その上で、一人であらゆる情報チャンネルを持つことは至難の業であるため、教師自身のネットワークが必要であると考えるのである。また、自分の専門性を明示し、お互いの教育情報を交換しあい活用しあえるような教員同士のコミュニティー形成が必要であるとも考える。こうした教員の集まりは、すでにインターネット上に多く存在するので、活用すべきであると思う。
もう一つ忘れてはいけないのが、「情報モラル」の教育である。最近では、犯罪の低年齢化とともに、子どもたちの中に規範意識が薄れているという現状がある。この点については、情報教育の枠を越えた問題であるが、特に人と人とを結ぶ情報教育を行っていく中では気をつけるべき点が多い。そのために、情報教育の一環として「情報モラル」の教育は必須であろうと考える。それは、インターネットを含めた新しい情報機器コミュニケーションのルールが曖昧で、子どもたちの中にアンフォーマルなルールは存在するものの、「情報の科学的な理解」に基づいたルールは定着していないのが現状である。現在、ネットワークの社会で古くから実践されているルールは、かつて大学などで実験的に広域ネットワークを利用していた人たちや主にパソコン通信などでコミュニティーをひろげてきた人たちの中で守られてきたルールが多く、場合によっては現状にあわないものもあるが、こうしたネットワークをかげで支えてきた人たちの知恵を借りる必要はあると考える。こうしたものを土台として、新しいルールづくりも盛んに行われているのが現状である。最近では、情報モラルについての本もかなり出てきているので参考にされたい。この点では、日本の社会に「自己責任」という意識が定着していないことにも、問題がある。自分の言動に責任を持ち、また、社会の中での自分の役割を自覚し、相互援助・共存共栄の中で自らの責務を全うしようという社会性の欠如が、問題をより深刻にしている。個性と自分勝手のはき違えを正さない限り、「ルール無視」「やりたい放題」の事件が多発することは必至であると考える。
以上のような、coordinatorとしての役割も情報モラルの指導も、その立場や取り組みを広く家庭・地域・社会などの外部へ伝え得ることによって学校の役割が明確化し、その取り組みに信頼が集まり円滑な学校運営にも寄与するものと考える。また、この2点については、これからも学校が担う部分が多く、「地域の情報教育」の核として学校が存在することになると考える。「思いやり」の社会を築き上げるために、学校の役割はこれからも注目を集めるものと考える。
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