新川 (旧 霊岸島)発祥

天正十八年(1590年)8月徳川家康が江戸に開府するまで隅田川の河口は海岸の砂州で新川(旧 霊岸島も広大な蘆の原で潮も満ち引きする沼地でした。
 地主は東京湾より江戸を守る為に軍事拠点として、徳川幕府水軍の徳川御船手四人衆の一人 向井将監と御公儀の土地でした。
 この土地は広大でどこからでも船をつけやすく、また 江戸のどこえ行くにも交通の便が良い為、堀庄兵衛という人物が向井将監と交渉し霊厳雄誉上人という和尚の寺院を造る為、寄進してもらい 東西に一町 南北に二町の沼地を埋め立て 道本山霊厳寺という当時有数の大寺院を造りあげました。
 寺社の周りは門前町として、また 江戸湊として諸国の船が米や酒・醤油や日用品等を船に満載して出入りして栄えました。
 しかし、当時の江戸は火事や喧嘩は江戸の華といわれるほど火災が多く、ついに、明暦三年(1657年)の明暦の大火により霊厳寺も焼け落ち新川(霊岸島)も焼け野原になってしまいました。
 江戸の豪商 河村瑞賢は、その旧寺社地を干拓して運河(新川という)を作り、幕府の火除け地により、日本橋や茅場町・京橋の町屋が、移り住み 万治三年(1660年)には酒蔵が建ち並び江戸一番の下り酒問屋街を形成した。 新川は下戸の建てたる蔵はなしいずれ上戸がめあてけり と歌われるほど、八回もの江戸の大火の余波をうけて全焼をくりかえしたが繁栄した。
 ちなみに1963年8月24日新川一丁目より発見された埋蔵金(小判1900枚二朱金78000枚 推定10億円)もこの新川に住んで盛業していた江戸一番の大金持ち 酒問屋の鹿嶋清兵衛の蓄財された財宝でした。
 こののち明治二十二年(1889年)には東京湾汽船有限会社(現 東海汽船)の貨客船航路の発着地としてさらに賑わいを見せた。
 現在は運送が海運より陸運に変わり、新川もインテリジェントオフィスや高層マンションが建ち並び、大都市東京を支えるオフィス街 またベットタウンとして繁栄を続けている
 いまでもこの歴史により日本の水面を決める 満潮の基準点の場所が新川にあります。

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