<<1994年、Honduras会の第一回と第二回はこんな年でした(^J^)>>

1960年代のある夏の日、アイオワ州の州都デモイン近郊のマジソンカウンティに、ナショナル・G・G誌の依頼で屋根付きの橋を撮影に来たロバート・キンケイドと農家の主婦フランチェスカとの出会いからその物語は始まる。
ローズマンブリッジに佇むメリル・ストリープ!?
時は、戦後初めての非自民細川連立政権が8ヶ月にて敢え無く崩壊、泡沫(うたかた)の羽田政権を経て驚天動地の自社連立村山内閣が成立間もない頃でした。未だビル・ゲイツの影は遙かに遠く、日本フォスター・プラン事務局もワープロ専用機を使ってました。確か「マジソン群の橋」の“運命の4日間”の物語が日本中の本屋さんの書棚を席巻したのが前年の1993年、クリント・イーストウッド主演の映画が日本で公開されたのが翌年の1995年、その中間の1994年6月30日編集氏夫婦は、モントリオールでの水泳大会出場の途中、「マジソン群の橋」の舞台ローズマン・ブリッジを訪れました。小説の描写そのままに、シカゴからほぼ真西に500KM、アメリカの穀倉地帯中西部の一面のコーン・プレートの片隅にひっそりと素朴な佇まいでした。

1994年7月、私たちの物語はこうして始まりました。

初代渡辺会長・理事長が勇退。垂水新会長・理事長の就任を告げるプランニュース29号。私は何故かタルミズ氏を、タルミ氏とずーっと思ってました。



第一回目の集まりの写真は何故か無く、これは同じ1994年11月の第二回目の集いのモノ。

事務局からIMAIさんと、前事務局長煙草谷氏が来会されました。当時の肩書きは事務局次長。
※第一回会合時に“3人の世話人”選出!

初期の(1,2回とも)主会場、杉並公会堂何故かいつも裏口から入場(^J^)
現在取り壊して新築中。デビューは平成18年とか(映像は杉並区のHPから転用)
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