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大塚まさじホームページよりお借りした写真です。

 ゾウさん(西岡恭蔵氏)が四月三日に天国へと逝ってしまった。それも、自ら死を選んでしまったのである。信じたくも認めたくもないが、それは紛れもない事実であり、認めざるを得ない。何となくぼくの心の中に、万が一の予感としてあったことは事実であるが、やっぱり信じがたい出来事である。

 翌、四月四日はKUROの命日で、ちょうど二年目の三回忌の日であった。ゾウさんにとって、その日が特別な日であることは、身近にいた誰もが承知はしていたが、本当にKUROのもとへ行ってしまうなんて、誰が考えただろうか。

 その日、ぼくは葉山の毎年恒例となった花見で、午前中から出かけていた。後からやってきた美和から、「ゾウさんが電話を欲しいって」と伝えられ、急いで帰り折り返しの電話をかけた。ゾウさんはその頃極めて調子が悪く、ぼくもたいへん心配していた時期だったが、声の感じからはあまり落ち込んでいるようには思えなかった。話の内容は、精神科でもらっている抗鬱剤についてのことで、ゾウさんはこの薬を嫌っていて、ほとんど飲んでいなかったが、それを飲むべきかどうか、みたいな話だった。それから、九日に大阪のバナナホールで収録するはずだったNHKの『伝説のフォークライブ』の六日のリハーサルの話をして、「それではその時に」ということで、いつもとさほど変わりなく電話を切った。あろうことか、それから何時間か後にゾウさんはこの世との通信まで切ってしまい、戻らぬ人となってしまったのである。

 ぼくとのあの電話はいったい何だったのだろう。あの時にはすでに生きる希望を無くしていたのだろうか、それともあの電話でもがきながら何かを探していたのだろうか。いくらどんなふうに考えてみても、もうゾウさんは二度と帰ってはきてくれない。

 二年前、KUROが亡くなった時は、誰もがゾウさんのことを心配したが、なすべきことが多かったこともあり、とても元気そうに見えた。

 その年、KUROに捧げた最高傑作アルバム『Farewell Song』を制作し、そして去年の二月からは、KUROの追悼盤である『KUROちゃんをうたう』のプロデュースをし、そのすぐあとに同名のタイトルで、KUROの一周忌のコンサートを取り仕切っていた。その間、息をつく暇もないほど積極的に動いていたし、精神的にもとても高揚していた時期でもあったようだ。

 夏場はぼくと二人の『デュエット』でよく一緒に旅をした。その時は、次のアルバムの準備というか「唄を書きたい」ということをしきりに言っていたし、実際、暇を見つけては楽屋の片隅でノートに向かって新しい唄に取り組んでいる姿を何度となく見かけた。

 夏が終わり、ちょっと一息つけるようになった九月の中頃に『KUROちゃんをうたう』は発売された。そして、このアルバムの発売記念コンサートが、東京、大阪、京都で行なわれた。それはゾウさんが信頼のおける仲間と小さなバンドを作り、KUROと一緒に作った唄たちを歌うという趣向のコンサートだったようだ。

 その頃から又、ゾウさんの調子が下降線を辿り出した。「人前で歌うのが辛いんや」と何度となくぼくに訴えていた。それはあきらかに鬱病の表れだったと思う。家にいることも嫌がっていた。今までゾウさんの全てを受け入れてくれていたKUROのいない家にいることが、この上なく辛かったろうし、淋しかったのだろう。それに新しい唄が書けないという苦痛も加わり、十月に島根や九州を一緒に回った時は相当辛そうで、ため息ばかりついていたという印象が強く残っている。

 今年になって、二月に伊勢で久しぶりにゾウさんに会ったが、やはり元気がなかった。伊勢はゾウさんの故郷というか高校時代を下宿生活で過ごしたところで、同級生がたくさん住んでいる町である。自分の生まれ育った所で歌うというのは微妙なニュアンスがあって、あまり気が進まないところがあるものだ。ゾウさんはそんな緊張も手伝ってか、元気な時のゾウさんからすると、何となく小さく縮んでしまったように見えた。

 その後も関西で一週間ぐらいのツアーがあったのだが、ステージに立てるような状態ではなかったようだ。心配で何度となくゾウさんに電話を入れたが、実に辛そうであった。

 帰宅後、悩んだ未病院には行ったが何の解決にもならなかったようだ。もう随分と前から、精神科の医者とカウンセリングの先生にはかかってはいたのだが、薬の効果もカウンセリングも、この頃のゾウさんには全てが苦痛になってきていた。そんな中、藁をも掴む思いでいろいろと模索を繰り返していたようだが、結果はいつもマイナスの方向に流れてしまい、もがき苦しんでいた。

 ゾウさんにはKUROのように何でも話せるような人が必要だった。そして、そんな人たちが何人かいた。毎晩長電話をして、話を聞いてもらっていた女性。昔から深いつき合いをし、どんなことも相談してきた近所の夫婦。その他にも、何人もの人たちがゾウさんの苦痛の訴えを聞いてきた。でも、誰もゾウさんを楽にしてあげられなかったし、代わってもあげられなかった。ぼくもそんな中の一人だった。

 家にいることが辛くて何もできない、自分一人では何も決められない、僕はずっと自立してこれなかった、息子たちに何もしてあげられない、俺といっしょにいる人たちをみんな不幸にしてしまう、KUROの死は俺のせいだ、とことごとく自分を責めていた。

 救われる道があるのならどんなことでもという気持ちから、帯広の民間療法の友人を訪ねたり、以前からゾウさんが言っていた四国霊場を十日間も歩きつづけたりもしたが、特に何も変わりはしなかったようだ。

 三月二七日、大阪狭山市公民館の『デュエット』が、結局ゾウさんにとっての最後のステージとなったのだが、以前のような元気こそなかったが、声はいつもよりよく出ていたしいいステージだった。この時もゾウさんとはいろいろと話し合ったが、なんの結論も出ぬまま新横浜で別れた。

 この歳になると、人の死に出会うことも日増しに多くなってきた。その度に、人にはそれぞれ与えられた寿命というものがあるのだなと感じてきた。それに、長生きだけが決して幸せだ、とも言えないことも知っている。ゾウさんはきっと、生きている限りあの苦しみから開放されることはなかっただろう。だから、ぼくの中ではゾウさんは病気で死に、今やっとあの苦しみから開放されたのだと思っている。

 三十年前、もしぼくがゾウさんに出会っていなかったら、唄など歌っていなかったことだけは確かである。ゾウさんの唄で教えられた愛と平和のメッセージは、ぽくをはじめ多くの人たちの心の中にしっかりと息づいていくことだろう。

 ごくろうさま、ゾウさん。
 長い間、ほんとうにありがとう。
 もうゆっくりと眠ってください。
 安らかに。

ムーンライトニュース VOL.14 NO.53
1999.5.1より転載