韮 崎 散 歩

平和観音像・雲岸寺・窟観音・韮崎大村美術館
武田八幡神社・わに塚の桜

  平和観音

  


JR韮崎駅の南西の山の上・七里岩(八ヶ岳火砕流跡)南端上に白亜色の観音像が見える。観音山公園に立つ平和観音像である。昭和36年(1961)に開眼された、総高18.3m(仏高16.6m)のコンクリート像である。

建立主旨は、「市民の平和と無限の発展、訪れる登山者の無事安全を祈願して、次代を背負う子どもたちを見守る」ということであるが、昭和34年(1959)に発生した、台風7号と15号(伊勢湾台風)による釜無川等の氾濫によって被害を受けた、多数の死者の霊を弔うこと、そしてもう起らないことを願う気持ちも込められているという。その優美な姿から関東三観音のひとつに数えられている。


観音像の前に次の銘文がある。
「昭和33年彼岸、七里岩南端に慈愛にみちた観音さまの御姿を夢見る恵の兆しを同志にはかり、観音像の建立を思い立った発案者が、市民の平和と無限の発展を祈り次代を背負う子供達の強く正しい成長、また皇太子殿下のご成婚を記念してこの地をえらび着工した。2年と2ヶ月を要し、昭和36年10月13日落成開眼、製作は秋山源太郎氏が担当し、多くの市民の浄財と協力により完成韮崎市に寄附採納されたものである。身長16.6メートル(台座を加えると18.3メートル)、お顔2.6メートル、右手施無畏印は2メートル、体重305トン  昭和62年3月 韮崎市」



平和観音像脇には、この地出身の作家、山本周五郎の名作「山彦乙女」の一節と「うるさと回顧の碑」、また釜無川で捕獲された魚の供養塔が建っている。

 ふるさと回顧の碑に刻まれている歌 「河鹿ホロホロ 釜無下りゃよ 鐘が鳴ります 七里岩」

 
       ふるさと回顧の碑                     山本周五郎文学碑




  雲岸寺

 

平和観音が建つ七里岩末端の急崖下にある曹洞宗の寺院で山号は仏窟山、窟(あな)観音の寺として親しまれている。本尊は薬師如来。開祖は祖慶で、はじめ真言道場であったが1615(元和1)年、曹洞宗に改宗されたと伝えられる。寺域の七里岩急崖に窟屋(いわや)観音がある。伝説によると僧空海が観音石仏を洞窟に安置し、住民が観音のために堂を建立したといわれ、1667(寛文7)年から千体仏を備え翌年開眼したと伝えられる。堂の老朽化のため仏像は昭和五十年頃に本堂に移されていたが平成七年には、御堂、山門などの修復がおこなわれ、約二十年ぶりに元の御堂に安置された。

甲州八十八カ所霊場の第52番、塩川筋番外34番札所となっていた。通称穴観音として知られ、3月21日の例祭は現在も盛んである。


雲岸寺の案内板には次のように記されている。

仏窟山 雲岸寺 
宗派及び本山 曹洞宗 福井県永平寺 神奈川県総持寺
本尊薬師如来 合祀仏聖観音菩薩 千体地蔵尊 不動明王 弘法大師

由緒、雲岸寺は、室町時代の寛正五年(一四六四)二月、弘法大師遊化の遺跡として遠近に著名な霊場窟観音を守るべく大師の法流をくむ祖慶和尚が開祖した真言宗の道場で、慶長八年(一六〇三)三月徳川家康は黒印地一石四斗四升余と屋敷百五坪を寄せて寺を保護したのち寺運がやや衰えた元和元年(一六一五)甲府市塚原町恵運院六世の国州天越和尚が中興して曹洞宗に改めた。境内の七里岩洞窟と懸崖造りの窟観音堂は弘法大師の開基で多くの仏像を安置していた。現在の本堂庫裡は昭和五十八年十二月に三年の歳月を要して完成した。
                                                山梨県韮崎市




  窟観音

仏窟山雲岸寺の境内、本堂の横には、七里岩(八ヶ岳火砕流跡)の南端崖面を刳り貫かれて造られた石窟がある。そこには岩屋があり、内部に空海が開眼したという聖観音、弘法大師像、寛文八年(1668)に開眼した千体地蔵等が安置され、更に窟内には多数石仏が安置されている。

御堂[窟屋(いわや)観音の本殿]がどうして落石注意と表示してある石段を登って行く急崖の中腹にあるのかと思ったら御堂横の窟をくぐり抜けると、反対側の斜面に建つ市民会館の下に出た。昔はこちらが入口だったのだろう。

 
   窟観音の御堂は崖の中腹にある          落石に注意しながら左の石段を登る

 
        窟観音の御堂                   千体仏。千体地蔵尊

 
        弘法大師御尊像           窟観音本殿 中央が窟観音本尊聖観世音菩薩
                               左は十王尊。右は心境

 
      洞窟内にある石仏                    洞窟内にある石仏


御堂の中の窟に安置されている像についてそれぞれ説明文が記されていた。

千体仏。千体地蔵尊。
寛文七年[江戸時代](一六六七年)にすべて安置されました。日詣り、月詣り、願掛け千体仏として信仰祈願されています。当時より、かならず一体は参詣祈願者の目と目が会う千体仏があると信仰されてきました。
現在では、合格祈願、学業成就祈願、子宝祈願、安産祈願、健康祈願、良縁祈願、安全祈願、商売繁盛祈願、病気平癒祈願、心願成就祈願、等の諸祈願成就霊場として信仰祈願されています。

弘法大師御尊像。828年に弘法大師が作った像です。
天長五年[平安時代](八二八年)に僧空海(弘法大師)が当地の平安を願いお造りになられた石像であります。
窟観音には、弘法大師自作の石仏が二体[弘法大師御尊体像、聖観世音菩薩像]安置されております。
祖師信仰厚く弘法大師僧空海を民衆信者が「お大師さま」と崇敬されています。

窟観音本殿。窟観音本尊聖観世音菩薩。左は十王尊。右は心境。
天長五年[平安時代](八二八年)に僧空海(弘法大師)が当時の民衆の足である馬の安全、民衆の家内安全を願いお造りになられた石像であります。
窟観音には、弘法大師自作の石仏が二体[弘法大師御尊体像、聖観世音菩薩像]安置されております。
本殿内陣須弥檀の中央に本尊聖観世音菩薩、左に十王尊[地獄の裁判官]、右に心境が安置されています。
本尊 聖観世音菩薩は交通安全、家内安全の祈願本尊です。十王尊は、地獄の裁判官であり、この世の悪業を清める十王尊です。心境は、心の鏡を照らすと伝われています。




  韮崎大村美術館

世界的科学者である大村智(おおむらさとし)氏が特許で得た資金で購入した美術品を故郷に美術館を造り共有財産として皆に見せたいと2007年10月27日に韮崎大村美術館が開館した。主に女性芸術家の作品を展示・収蔵する全国的にも珍しい美術館。大村さんは1年以内に建物と敷地、作品すべてを同市に寄付することにしている・・と言う。特許で得た資金で蒐集(しゅうしゅう)したものを社会に還元し、韮崎市民の財産にすると言うその考えに感動した。

 


2008年4月3日〜6月30日の展示は春季企画展として、「女流画家に描かれた花」であった。2階展示室には梅原龍三郎・安井曾太郎・中川一政など有名男性洋画家の作品や鈴木信太郎のコレクションも展示されている。陶磁器が展示されているカフェからの眺めは素晴らしく、八ヶ岳連峰から茅が岳・秩父連峰が見渡せる。隣に温泉施設も併設されている。

http://www.nirasakiomura-artmuseum.com/




  わに(王仁・鰐)塚の桜

韮崎段丘のほぼ中央、武田地区と北宮地地区の間にあり、こんもりと盛り上がった王仁塚(日本武尊の王子武田王の墓、前方後円墳、王仁族が住んでいた所と諸説ある場所)の上にあります。樹齢300〜400年、樹高約17m、根回り約3.4m、枝張23mのエドヒガンザクラの一本桜で、春には見事な花を咲かせ市の指定文化財になっています。また、過去に郵政省の「さくらメール」のポスターにも採用されたことがあるそうです。訪れたのは春でなく初夏だったので花はなく葉が茂っていました。

 


 わに塚というのは、日本武尊(やまとたけるのみこと)の皇子、武田王を埋葬した塚といわれ、王仁塚とも鰐塚とも表記します。埋葬された武田王は、武田武大神として武田八幡宮に合祀されている。後、甲斐源氏の祖新羅三郎義光の曾孫源太郎信義がこの地にあって、姓を武田と改め武田氏を起こし、甲州武田家の名前の由来でもあるといいます。近くの武田八幡神社にも素晴らしい巨杉やシラカシの森があります。ここから眺める、わに塚のサクラの遠景も見事なものだそうです。




  武田八幡神社

甲府にある武田神社とよく間違われる八幡宮ですが武田神社は躑躅ヶ崎館跡が神社になったもの。歴史は八幡宮の方がずっと長く武田氏から崇められていた神社である。

 
      石の鳥居と総門                     総門から石段の奥に舞殿


 
           舞 殿                         舞殿の上は拝殿


 
       拝殿とその奥が本殿       本殿の屋根の上端(鬼瓦)に当たるところには大きな
                           能面のようなものが付いていた 


総門の近くに3つの案内板が立っていた。

当社は社記によると嵯峨天皇弘仁13年勅命によって、九州宇佐八幡をむかえ地神(武田武大神)と併祀して武田八幡宮と称したという。なお清和天皇の時、京都石清水八幡を社中に併祀し甲斐源氏の崇敬をあつめたが、鎌倉時代初期武田の荘に拠って武田氏を始めた信義に至りこの郷一帯を寄進して氏神とした後、戦国時代に武田信玄は現本殿を再建(天文10年)して、子勝頼滅亡の寸前同夫人が戦勝を祈念して訴えた切々たる願文は今に伝えられ武田家には深い関係を有する古社である。徳川氏治世後も広く敬信された神社である。


    山梨県指定文化財 昭和三十六年十二月七日 指定
          武田八幡宮石鳥居 付正面石垣
石造明神鳥居、大きな亀腹(礎石)上に立つ柱には、双葉町志田の船形神社のそれと同様、見た目には胴張り(エンタシス)のごとくに感じられ、しかもがっちりと太く(径0.四六メートル) これに比して柱上には台輪をはさんで置かれた幅の狭い鳥木や笠木は程よい真反りを示し、両端の切り方も内斜ではあるが後世のものほど極端でなく増しも軽妙である。鳥居の貫に天正十二年(補修)の銘があり、峡北地方の中世造営の鳥居の特徴を備えている。石垣は正面神社参道から鳥居を迂回して石段をつくる特殊な形態を呈し、石積技術も優れ貴重なものである。
                                   平成十年三月吉日
                                             山梨県教育委員会
                                             韮崎市教育委員会


武田の里 公園の概要
韮崎市は、甲斐の武田氏の発祥地で、神山町には武田信義の館跡をはじめ、武田八幡神社・白山城跡・願成寺など武田一族の一連の旧跡が点在し、隣接の町にも数多くの歴史的遺産が点在します。
また、この地域を灌漑する徳島堰は江戸時代の用水路として名高く、御勅使川の流域には、信玄築堤の将棋頭の遺構もあり、七里岩台上には、民俗資料館、坂井遺跡、新府城跡など古代から近世に至る貴重な歴史的遺産があり、一方新府城跡の城下には、近年桃源郷が開発され、また高山植物の宝庫と言われる南アルプスの山々が文化の花を添えている。
このほか市の象徴ともいわれる平和観音像や文豪山本周五郎の文学碑、詩人北原白秋・歌人窪田空穂・山岳家深田久弥などの文学碑、市民の心を広げる数々の文化的遺産にも富んでいます。
ここに、これらを含めた地域を歴史と文化の「武田の里」公園に指定し、地域の人々のご協力を得て、永遠に保護することをこの市の誇りとしたいと思います。
                                               山梨県・韮崎市


本殿の近くにある案内板

  重要文化財 武田八幡神社本殿 昭和4年4月6日指定
武田八幡神社はもと武田八幡宮と呼ばれた。社記によれば、往古この地に武田王をまつる宮社があったところへ、弘仁十三(八二二)年二月勅命により、九州宇佐八幡宮を勧請して王の宮社に合祀し、武田八幡宮と称したのが起こりで、のち貞観年間(八五九〜八七六)に京都石清水八幡宮を社中に勧請した。新羅三郎義光いらい甲斐源氏の尊崇が厚かったが、ことに義光の曾孫信義は武田の郷に居館を定めて武田の太郎と名のり、当社を氏神とあがめて崇敬のかぎりをつくした。のち三百余年を経て天文十(一五四一)年、武田晴信(信玄)が甲斐の守護になると、当社本殿の造営に着手し、同年十二月二十三日に早くも落成した。
本殿は三間社流造・桧皮葺で、身舎は桁行三間・梁間二間、柱は円柱を用い、組物は通肘木つきの和様出組として軒支輪を設け、組物間の中備は間斗束である。頭貫の先端は木鼻をつけ、室町期の特色を見せる。正面三間は弊軸構えとして金箔押しに八双金具で飾る両開きの板唐戸をつけ、扉の両脇の方立面を埋める松・竹の透彫装飾は豪華絢爛である。壁は板で、周囲には刎高欄つきの縁をめぐらし、両側に脇障子を備える。正面には昇高欄つき階段を設け、向拝前面に浜床を張る。向拝三間は面取り角柱で、組物は桁行外方にだけ二手先となる通肘木つきの連三斗組をおき、中備えに透彫の装飾を入れた蟇股を飾る。妻飾りは虹梁大瓶束で、屋根は桧皮葺の切妻造りで、前方の流れを延長して向拝屋根としたいわゆる三間社流造りをなす。本殿全体は木割が雄大で、しかも装飾的意匠にすぐれた室町時代の特色を示し、武田氏興隆期力強さを誇る遺構として貴重な有形文化財である。
                               昭和54年3月     山梨県教育委員会
                                             韮崎市教育委員会




 
源平合戦「富士川の戦い」で名を馳せた武田信義公         一石百観音石像
上の写真は市役所に建っている信義公の像です


一石百観音像

(山梨県韮崎市神山町 市指定文化財)
 武田八幡宮の参道傍らに、ひっそりと佇む。
宝永六年(1709)に造られた高さ1.7mの石像は、元々武田八幡宮の神宮寺に置かれたものであったという。その後同じ村内の玉保寺という寺院に移されたが廃寺となり、現在地に移されたものである。
 石面には阿弥陀三尊と、西国、秩父、坂東の三十三観音を配して刻まれている。




              
                     武田八幡宮の神樹


境内には樹齢何百年もの大きな杉の木が沢山ある。本殿の裏にひときわ大きく真っ直ぐ伸びている神樹(巨杉)がある。





                                               (2008・6・10)