JR中央線長坂駅から県道606号線で七里岩から花水坂を釜無川へ下っていくと甲州街道四十四次の40番目の宿場町・台が原宿に出る。日本の道百選にも選ばれている宿場道跡で台が原宿は古い町並みも残っていて、その中で昔からの建物だと目立っているのが、山梨の銘酒七賢で知られている山梨銘醸と信玄餅の金精軒の建物です。
七賢の入口にある看板と大きな杉玉 金精軒
七賢には明治13年明治天皇がご巡幸の折り宿泊した行在所(仮の御所)があり、毎年2月に行われる蔵開きには1週間の期限で蔵や家の中を案内して見せてくれます。今年はNHKの大河ドラマ「風林火山」の放送があり、観光客も沢山来るのかどうか知りませんが、明治天皇の行在所は夏でも見せてくれています。
案内人の説明によると、酒蔵七賢の創業は、江戸期の寛延三年(1750)。北原家は信州高遠で酒造りをしていた。所用で高遠と江戸を往復していたとき、この台が原の地が水・気候ともに酒造りに適していることを見抜き、初代北原伊兵衛光義が高遠より分家をして創業した。今の当主北原兵庫は十二代目に当たり、暖簾とともに、酒造りの伝統文化を継承し、さらなる日本酒の神髄を求めて邁進しているそうです。
酒銘「七賢」の由来は、天保六年、大中屋母屋新築の折、かねて御用を勤めていた信州高遠城主内藤駿河守より竣工祝にと『竹林の七賢人※』(諏訪の宮大工、立川流三代目、立川専四郎富種刻)の欄間一対を頂戴致した。以来酒銘を「七賢」と称したと伝えられている。
※『竹林の七賢人』(中国晋朝の時代、俗世を 離れ、酒を好み竹林に清遊していたという七人の賢人)
行在所は・昭和八年 文部省史蹟指定・平成十二年 山梨県指定有形文化財に指定になっている。
明治天皇巡幸で七賢の母屋を行在所として使ったとき、その時の当主、六代目延世は、一晩だけ侍従の位を頂き、明治天皇に御挨拶が許されたそうです。また、延世の二人の息子は明治天皇の配膳役を務め、お使いになったお箸を直々にいただいたといいます。
行在所は、御一行お発ちの翌日から終戦直後まで神様がお降りになった所として注連縄が張られ、出入りを禁じられておりましたが、現在では、明治天皇ゆかりの品々とともに皆様に御覧いただいておりますという説明だった。