「まぼろしの泡汁」

 皆さんは、泡汁(あわじる)というのをご存知だろうか。
 実はわたしも、ついこの間までその存在を知らなかった。
 日本経済新聞に掲載された東京農業大学の小泉教授の記事によると、泡汁の美味しさは「七転八倒的なもだえの寸前」というのだ。
もだえるほどの美味しさとはどんなものなのか、知りたいと思うのが人情である。 しかも、誰でも口に出来る物ではなく、泡汁は酒造家の特権だと書いてある。

 何を隠そう、わたしの実家も酒造家なのだが、私にはそれを食した記憶がない。 さっそく実家の母に聞いてみた。
 「ねえ、泡汁って知ってる?」
 「知ってるよ。旨いなんてものじゃなかったね。粕汁なんて足もとにも及ばないよ」

なに! 粕汁より美味しい? そんなものがあったのか。
 母の記憶によると、嫁いで来たばかりの頃に、食べたことがあるそうだ。
 今から60年以上も昔の話である。それ以来、一度も口にしたことはないという。そんなに美味しいものをどうして食べなくなってしまったのかと、読者は不思議に思われるだろう。
 この謎を解くには、泡汁が何たるかを説明しなければならない。

日本酒を造るには、まず蒸した米と麹を混ぜ合わせ、桶やホーローのタンクの中に仕込み水ともに入れる。すると酵母菌の働きで発酵が始まり、盛んに炭酸ガスを発生する。この状態を「もろみ」という。この時発生する泡の勢いはものすごく、放っておくとタンクの縁から泡と共にもろみまでこぼれ出してしまう。

それを防ぐために、タンクの上部に板で傘のような覆いをしたそうである。板の高さは1メートルほどあるので、立ち昇ってきた泡はそこで止まる。この時期、蔵人(くらびと)たちは交替で寝ずの番をしたと聞いている。

泡の勢いがなくなった頃、覆っていた板を外すと、板の内側に、ねっととりしたコンデンスミルク状の物が張り付いている。
 それが泡汁の元となるのだが、教授によるとその主成分は米の糊精(こせい)と酵母だそうだ。現在では、ファンを回して泡を押えているため、覆いの必要がなくなってしまったというわけである。
 酒粕を盛りを過ぎた女性にたとえるなら、これは恋を知り染めし乙女の味かもしれない。

泡汁の具はその蔵ごとに特徴があったそうだ。教授の実家では、塩鮭や塩ブリの粗(あら)を中心に、大根、人参、こんにゃく、油揚げなどを入れたそうだ。
 実家の場合、泡汁に欠かせない具が三つあったという。
 干葉(ひば)と呼ばれる大根の葉を干したもの、打ち豆、凍み豆腐、どれも日向のにおいのする冬の保存食だ。
 これらが泡の精と絡み合って、淡白な中にも仄かな甘みと、新酒になる前の初々しい香りと、上品なこく、考えただけでもよだれが出そうだ。

造り酒屋に生まれ、せっかくの特権を享受できなかったとは。
  ああ、残念無念!

今年も母からふるさと小包が届いた。60歳を過ぎた娘のために、せっせとふるさとの味を送ってくれる母。
 酒粕、納豆、打ち豆、百合根、ニシンの山椒漬け、茅の実などなど。  母の愛情のこもったそれらは、私にはまぼろしの泡汁に負けないほど価値があるものなのだ。
                                     おわり