「馬鹿者は、いつどこにいるかわからないから気を付けるように」
心配性の母の口癖である。
いつもは一笑に付す私なのだが、新宿のビデオ店爆破、渋谷の金属バットによる殴打事件と、立て続けに無差別殺傷事件が起きると、母の取り越し苦労を笑ってばかりはいられない。 まして渋谷は私の通り道、一歩間違えれば、私が被害者になっていたかもしれないのである。
今日もバスを待つ間中、あっちをきょろきょろ、こっちをきょろきょろ、いつ襲われても逃げられる心構えをしていたのだが、端から見れば私のほうが不審人物に映ったに違いない。
なんと悲しい世の中になってしまったのだろう。
事件が起きるたびに、やれ親が悪い、学校が悪い、社会が悪いと、その原因が分析されるのだが、対策を講じる前にまた事件が起きてしまう。
かれらに共通するのは、友達が極端に少ないことだ。
人間同士のコミュニケーションの欠如という状況の中であふれるほどの物品と過剰な情報を与えられると、人間はこうなるのだろうか。
社会に適応できない子供が様様なストレスに耐えきれなくなった時「キレル」状態になるのかもしれない。
子供達が命の尊さを体験から学ぶことが出来ないことが問題ではないだろうか。
昔、子供の遊び場は自然だった。転べばひざをすりむくし、葉っぱで手を切ったり、とげを刺したりと遊びにも軽い痛みが伴ったものだ。自分の肉体の痛みを通して、他人の痛みも理解していったのだ思う。
それに引き換え、今の子にあるのは仮想現実だけ。つまり自分の肉体を通過した情報ではないのだ。すべてはバーチャルの世界、妄想だけが膨れ上がり、心をコントロールできなくなった時、妄想が一人歩きをはじめてしまう。
二十一世紀は情報革命の時代、政府も躍起になって推進しようとしているが、
情報過多がストレスになることもある。
毎日、新聞に挟まってくるチラシの量は半端ではない。
それに郵便受けはダイレクトメールであふれている。
街を歩けば、ポケットテッシュでバッグは一杯になる。
テレビや雑誌はもちろんのこと、インターネットまでが生活の一部となった今日、私たちは膨大な情報のなかで生きていかなくてはならない。
情報の洪水に流されないようにするには、目を閉じ、耳をふさげば良いのだが、仙人ならいざ知らず、人間には欲望という厄介なものがある。
得する情報を見逃しては損だと思う心が、シャットアウトする勇気を奪ってしまう。
つい先ごろ、生命保険の見直しをしていて、情報の海に溺れそうになった。余りにも多種多様で、何が一番いいのかさえわからなくなってしまう。ストレスを溜め込む結果になってしまった。
二十一世紀、情報の海を泳ぎ切るには情報を取捨選択する能力を身につけなければならないとあらためて思った。
大人でさえ、アップアップしているのだから、まだ出来上がっていない子供はなおさらではあるまいか。幼いうちから、正しい選択眼を身に付けさせることが急務である。
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