「吉野山の桜」
 桜前線は、東北北部まで達したらしい。
 故郷の亀ヶ城址の桜も、今ごろは満開にちがいない。
 日本全国に桜の名所は数え切れないほどあるが、太閤秀吉が絶賛したという、吉野山の桜を見る のが、ここ数年来の私の願いであった。
   4月の初め、期待に胸膨らまして、新宿発十時三十分の、夜行バスに乗り込む。 車中一泊し、吉野山についたのは、翌朝の六時。
 まだ人影もまばらで、山の空気はキーンと澄み、肌寒いくらいである。
 「えっ、桜はどこ?」思わず叫んでしまった。
 バスの添乗員から、吉野山の桜は残念ながらまだつぼみだそうですと、聞いてはいたが、下千本 くらいは開いているのではないかという淡い期待が私の胸にはあったのだ。  しかし、自然は甘くない。見事に振られてしまった。
 「昨年の今ごろは八分咲きでしたがね」茶屋のおかみさんが済まなそうにいう。  こればっかりは、仕方がない。桜は想像力で観るしかないと諦めることにした。
 実は、私の吉野行きにはもう一つの目的があったのだ。
 それは、今から百十五年前に曽祖父が歩いた吉野山を、自分の足で歩きたいという思いであった。
 明治十八年四月十七日、曽祖父の常吉は飛鳥を出立し、橘寺、岡寺、談山神社を拝観し、文峠を 越えたらしい。
 常吉の旅日記によると、 「飛鳥村より出立の際雨降り。(中略)その峠もっとも険悪にして、その峠より四里、吉野山へ 来たり。満山桜木にして風景の佳なること、上げて算するを能わず。然し満開に相成らず、後醍醐 天皇の御陵、寺院を拝す。その夜は吉野・佐古屋平右衛門殿方に泊し、その泊料十八銭なり」とある。
 土砂降りの雨の中、この吉野山まで登ってくるのは、そうとう大変だったことが険悪という文字 から浮かび上がってくる。
 それに引き換え、現在は東京から八時間で下千本の入り口までバスで来られるのだから、楽なもので ある。
 百十五年前に、今日が来ることを誰が予想できただろうか。
 この道を先祖も歩いたのかと思うと、感慨ひとしおであった。
 佐古屋は「さこや」と名前を変えていたが、銅の鳥居のすぐ横に現存していた。  当時の面影が、旧館の二階の手すりや白壁に少し残っていた。    宿の女将さんとは、手紙のやり取りがあったので、ゆっくりお話を伺いたかったのだが、残念ながら バスの集合時間が迫っていたのため諦めざるを得なかった。
 やがて、バスは長谷寺に到着。この寺は、実家の菩提寺である西勝寺の総本山にあたる寺で、これで 二度目である。
 満開の枝垂桜が私たちを迎えてくれた。吉野の敵をここでとった思いである。レンギョウ、コデマリ、 白木蓮が咲き乱れ、別名「花の寺」と称されるだけのことはある。  この寺の花の代表選手である牡丹は、登廊わきの斜面で陽光を浴び、出番を待つ艶やかな女優のよう に見えた。  今回は諦めることが多かったが、下見と思えばいい。
 いつかきっと「さこや」に泊まって、満開の桜を眺めようと心に決めた。