「季節はずれの盆踊り」

 晩秋のたそがれ時は、どうもいけない。
 カラカラと音を立ててわくらばが路上に舞い、木枯らしの冷たさにコートの襟を立てるこの頃になると、何となく物悲しさを覚え、故郷が懐かしくなるのは私だけではないだろう。
 そういう訳かどうかは知らないがこの時期、東京在住者による各地の同郷の集いがやたらと多くなる。
 わたしも先日「東京猪苗代町民会」なるものに初参加した。発足十年目になるそうだ。
 元来、この手の集まりは苦手で、それほど関心もなかった私が参加したのには少々理由がある。
 実は、この度私が出版した「明治十八年の旅は道連れ」(源流社刊)という本を、おおいに宣伝してきて欲しいという出版社の命を受けて、大きな声では言えないが、仕方なくというのが真相である。
 これが思ったより盛大で、百人以上は集まっただろうか。もっとも、大部分は年上の方々で、私などは新参者。この年で若い方とは嬉しいではないか。
 猪苗代町からは、町長をはじめ商工会会長ら数名が出席し、けっこう盛り上がった。
 宴もたけなわになったところで、会津磐梯山が流れ出した。もちろんライブである。唄と三味線は猪苗代出身のプロの方々。
 猪苗代町といえば会津磐梯山。当然といえば当然なのだが、いきなり盆踊りが始まったのには、少々面食らった。
 この季節に、盆踊りでもなかろうにと、最初は冷ややかに傍観していたのだが…、商工会からお借りした法被を着た人々の踊りの輪は、みるみる大きくなっていった。
 三味線の音色は、私の中に眠っていた郷愁を呼び覚まし、気がつくと、私も踊りの輪に入っていたのである。
 気恥ずかしさも、いつの間にやら吹っ飛んで「踊る阿呆に見る阿呆、どうせ阿呆なら踊らにゃ損損…」とばかりに踊りに興じてしまった。
 最後に盆踊りを踊ったのは、高校生くらいだったろうか。
 あれから四十年、盆踊りとは縁が切れてしまったが、昔取った杵柄、一回りもしないうちに振りを思い出し、心から愉しむことができた。そんな自分にちょっと驚いている。新しい発見だった。
 それから一ヶ月後、今度は「会津会」なるものに参加しろという。なかなか人使いの荒い出版社である。私自身も一人でも多くの方々に読んで頂きたいという思いから、今度は積極的に出かけた。
 こちらは歴史が古く、規模も大きい。みな会津藩の子孫としての誇りを胸に秘めて生きていらした方々である。
 またしても盆踊りが始まった。猪苗代をあとにして四十年、都会暮らしの方がはるかに長くなってしまったが、季節はずれの盆踊りは、私の心にふるさとを呼び戻してくれた。年齢のせいかも知れないが、それはそれでいい。来年は同級生を引き連れて行こう。