「魂の震える映画」

 久しぶりに魂の震える映画に出会った。
 知る人ぞ知る中国人監督チャン・イーモウの「初恋のきた道」という作品である。 あらすじはいたって単純。一九五〇年代後半、中国の河北省の貧しい村の娘が、町から赴任して来た青年教師に恋をし、やがて結婚、そして死別する、ただそれだけのことなのだが、監督は出きるだけ事件を排除し、ヒロインの一途さに焦点を合わせている。
 なぜこんなにも私の琴線に触れたのかを考えてみた。
 現代に生きる私たちは知らず知らずの内に心に何重にもよろいを着て、純粋で無垢な情熱をいつのまに失ってしまったのではないだろうか。
 この映画は、誰の心にも内在するそんな情熱をいっときでも呼び戻させてくれるからに相違ない。
 ヒロインの女優(チャン・ツィイー)のたぐいまれな可憐さは、切なさといじらしさに裏づけされ、人を恋焦がれるとはこういうことなのかと懐かしさにも似た感動が、観る者の胸を揺さぶらずにはおかないのだ。
 事実、客席のあちこちですすり泣きがもれ、ハンカチが揺れていた。
 秋の白樺の林、花咲く春の丘、すっぽりと雪に覆われた村の風景。
 考えてみれば、かつて日本にもあった懐かしい風景なのだ。その風景の中を、少女は愛のためにひた走る。
 人間の走る姿がこんなにも美しいとは思わなかった。
 いとしい人の姿を一目見たさに白樺の林を駆けていく少女。走ることが彼女の愛なのだ。黄葉の間から差し込む光に照らされて神々しいばかりである。また、カメラワークが素晴らしい。まるで映像詩を観ているようだ。
 少女は盲目の祖母と二人暮しである。祖母は少女の息づかいや動作で、少女の切ないまでの恋心を感じ取る。身分不相応の恋の行くえを心配して諦めろと諭す。
 しかし、その一途さについには手を貸すようになる。
 それらのやり取りをまったくせりふに頼らず、美しい映像で細かやかに拾い上げている。 全編に漂う優しさが、観る者を夢の中へと誘う。
 こんな愛の姿が、かつて私たちの国にもあったに違いない。でも今日ではこのヒロインのような汚れなく、みずみずしい少女はもう日本のどこを捜しても見つからないだろうという喪失感をも同時に感じないわけにはいかない。
 たとえ存在したとしても、この少女のような純心無垢な人間は生きられないだろう。きっと心を病むことになってしまうに違いない。
 いったい、私たち日本人は今日まで何を求めて生きてきたのだろう。失ってしまったものの大きさと、お金や物質に換算することの出来ない大切なものがあることを気付かせてくれる。
 たまには涙したい人、人間不信に陥った人、若かりし日の自分に出会ってみたい人にはお勧めの映画である。