「菊人形」11月掲載

今年の冬は、短距離ランナーのように足が速い。秋なんかとうに追い越されてしまったかのようである。秋の花といえば「菊」、そこかしこで菊花展が催されている。短い秋を惜しむかのように精一杯咲いているのが、いじらしい。
先日、思いもかけないところで、何十年ぶりに「菊人形」を見た。
本郷界隈の取材で、「文京ふるさと歴史館」に立ち寄ったときのことである。
入り口近くで、あでやかな振り袖姿の「八百屋お七」が出迎えてくれた。
菊人形の起源は古く、文政年間に始まったといわれている。そもそもは、菊を使って動物や富士山などをかたどったものらしい。いわゆる「菊細工(造り菊)である。
江戸のころは、巣鴨・染井・駒込の植木職人らがそれを手がけていた。
その後、幕末から明治にかけてその中心が団子坂(現・文京区千駄木)に移り、明治20〜30年代になると、坂の上の小屋が並び、評判の歌舞伎狂言や時事ものが喜ばれるようになり、競って大掛かりな人形を造ったといわれている。中でも「生(いき)人形師」の作った頭が呼び物となった。
「五代目尾上菊五郎」の頭などは本物そっくりである。といっても、本物の菊五郎を見たことがないので写真で確かめただけであるが…、かなり正確である。ちょっと見ると彫刻家・船越桂さんの作品に良く似ている。
この界隈には、かつて森鴎外や夏目漱石、物集高量羅らが住んでおり、文化の香り高き団子坂だったのだ。漱石の小説「三四郎」にも菊人形の場面が出てくる。当時の様子がよくわかるので引用してみる。

《一行は左の小屋へはいった。曾我(そが)の討入(うちいり)がある。五郎も十郎も頼朝(よりとも)もみな平等に菊の着物を着ている。ただし顔や手足はことごとく木彫りである。その次は雪が降っている。若い女が癪(しゃく)を起こしている。これも人形の心(しん)に、菊をいちめんにはわせて、花と葉が平に隙間(すきま)なく衣装の恰好(かっこう)となる》

とまあ、こんな具合に書かれている。
しかし明治42年、両国国技館で電気仕掛けなどの菊人形が登場すると、この団子坂の菊人形は衰退の一途をたどることになる。樋口一葉がかつて住んでいた菊坂の辺りは、菊の栽培が盛んであったところから付いたとも聞いている。
ともあれ、菊とは縁が深い本郷界隈である。