2003/1月 「究極のリサイクル」

 ここ10年位前から、リサイクルという言葉が市民権を得ている。
 しかし、考えてみればリサイクルは今に始まった事ではない。江戸の風俗を研究している石川英輔氏の著書によると、江戸時代の日本は、普通に暮らしているだけで、使った資源の90%以上がリサイクルされていたというからすごい。
 「物が不足し貴重な時代だからこそ、再利用、再生の方法が洗練されたリサイクル・システムとして完成していき、人間によるリサイクルは自然の大きなリサイクルの一部になった」と書いておられる。
 その代表が、稲わらである。
 米を収穫したあとのわらは、さまざまなものに使われていた。
 約50%は堆肥、廐肥として田畑にもどされた。30%は燃料として使われ、その灰もまた土の酸性中和剤として田畑にもどされた。
 そして残りの20%は、加工製品として用いられた。無駄なく使い切られたなら、わらも本望というものである。
 思いつくままにあげてみると<むしろ><俵><こも><わらじ><ぞうり><みの><編み笠><縄>などなどきりがない。これもまた最後は燃やされ、灰となって大地に還るのだから、究極のリサイクルといえよう。
 江戸時代の暮らしそのものがリサイクルシステムになっていたことは、当時の職業を見るだけ理解できる。
 鍋や釜の修理をした鋳かけ屋、切れなくなった包丁や鎌を研ぐ研ぎ屋、古着を売っていた古着屋紙屑拾い下駄の歯入れ屋
桶を直す箍(たがや)など、この辺りまでは私の子どものころも存在していた。
 しかし、調べてみると他にもさまざまな職業があった。
 <瀬戸物の焼き接ぎ><鏡研ぎ><臼の目立て><湯屋の木拾い><古樽買い><行灯の仕替え><箒売り><灰買い>などなど。驚くべきリサイクル精神である。
 稲わらの次は、着物ではないかと私は思っている。
 古布を扱っていてしみじみそれを感じるのである。最初は晴れ着だったものも、何代にも渡って着継がれていくうちに、布団の側になったり、ねんねこになったり、そして手提げになったり、人形の着物になったりする。今私の手元にある和布のように最後は小物を入れる袋になったり、パッチワークなどにに使われ、その生を全うするのである。
 浴衣もそう、古くなると寝巻きになり、赤ちゃんのオムツになり、最後は雑巾、本当に無駄がない。
 飽食の時代は終わり近づいている。いまこそものを惜しむ心を取り戻そうではないか。