大江戸線界隈探検隊

読売文化センター講座(新宿・金町教室)

第1回 4/11(木) (東新宿〜青山1丁目)
大江戸線東新宿駅 10時集合                                                    
申込者14名、一人の欠席もなく集合。メンバーの中で最年長者は78歳、最年少者は51歳。男性4名、女性10名という構成である。皆さん集合時間30分前には到着。最後の1名は10時2分前に来たのだが、何だか遅刻をしたみたいな雰囲気になり、ちょっと気の毒だった。年配者は気が早いことを頭に入れねばならないと思う。
小泉八雲終焉の地(大久保1丁目1−21)
大久保小学校の植え込みの前に、石碑が立っている。八雲が当時住んでいた木造の家の写真もプレートに刻まれている。小泉八雲は本名ラフカディオ・ハーンといい、ギリシャ出身。アメリカの雑誌特派員として明治23年(1890)に来日する。教師、記者などを勤め、松江で日本人セツと結婚。明治29年(1896)に帰化し小泉八雲と名乗る。東京帝国大学、早稲田大学で教鞭を取りつつ、執筆活動を行い、「怪談−雪女・耳なし芳一」はこの地で完成された。明治37(1904)年4月のことである。明治35年(1902)3月より臨終まで(明治37年9月26日)過ごし所である。
小泉八雲記念公園(新宿区大久保1-7)
小泉八雲を記念してギリシャ風に造られた公園。新宿区は平成元年に、 八雲のふるさと、ギリシャのレフカダ町と友好都市提携の調印を行った。 公園内にある八雲の胸像はギリシャ政府から贈られたもの。職安通りを大久保側にに入った路地の裏にあるため、知らない人が多い。そのためホームレスの人々のやすらぎの場になっているらしい。いつ行っても3,4人のホームレスが昼寝をしている。八雲は彼らをどう見ているのだろう。
稲荷鬼王神社(歌舞伎町2-17)
稲荷鬼王神社は「新宿山の手七福神」の一つ、恵比寿様を祭ってある。ここの豆まきは「鬼は内、福はうち」と言って豆をまく。「鬼王」というのは、実は平将門の幼名「鬼王丸」からとっていると言われるが、正式な記録はない。なお、この神社はお稲荷様なので、この近辺に多数存在する水商売の店に勤める人々がよく参詣するそうだ。神社の入口に変わった形の手水鉢があり、鬼が手水鉢を頭の上にのせて両手で支えている。伝説に寄れば文政の頃、加賀美某の邸内にあったが、毎晩この鉢から水を浴びる音がするので、ある夜刀で切りつけたところ、祟りか家族に病気や災害が次々と襲いかかりこの寺に寄進したということである。よく見ると鬼の肩に刀傷が残っている。まこと嘘か、江戸の人はお話を作るのが上手であることは確かだ。
島崎藤村旧居跡(歌舞伎町2−4−11)
詩人、小説 家。長野出身で1881年上京。泰明小学校、三田英学校などをへて91年明治学院を卒業。92年、明治女学校の教師となり、そのかたわら「女学雑誌」に翻訳などを寄稿した。代表作「破壊」「家」「新生」「夜明け前」など。その後教職を辞したり、透谷の自殺に会ったり、下獄下長兄に代わり一家の生計をになったりと苦難の日々を送りながら執筆活動を続ける。生活的危機の中で生み出された藤村の作品は、リアリズムの最高傑作として高い評価を得ている。この地には明治38年5月から、39年9月まで居住。1年4ヶ月と短い期間に娘を3人亡くしていて、この地にいい思い出はなかったらしい。
花園神社(新宿5丁目)
花園神社は徳川家康江戸入城よりも古いお宮ではある。寛永年代(1624〜1644)までは内藤宿の追分にあり、現在の場所より約250メートルほど南、つまり今の伊勢丹デパートのあたりにあったと思われる。神社が新しく拝領した場所は寛永より以前には尾張藩下屋敷の庭の一部であり花園であったという。その花園の跡に移転してきた稲荷神社なので花園稲荷神社と呼ばれた。60年代、唐十郎の赤テントが芝居を上演したのは、この境内であった。また、神社の右隅に浅間神社があり、ここは芸能の神様とあがめれ、芸能人の名前がたくさん刻まれている。もちろん唐十郎の名も。新宿ゆかりの藤圭子の「夢は夜ひらく」の歌詞を刻んだ石碑もある。
新宿追分(新宿3丁目)
 現在の伊勢丹デパートのある新宿3丁目交差点が、甲州街道と青梅街道の分岐点である新宿追分である。そもそも新宿の起源は、元禄12年にさかのぼる。慶長5年(1600)、五街道の整備がなされ、その道沿いに大名行列や商人・一般の旅人らの休息、宿泊場として重要な施設がある集落の町、宿場が設置された。甲州街道は信濃国(今の長野県)・上諏訪から江戸・日本橋までの道のりが53里2町23間(208.5km)あり、この街道には44の宿場があった。しかし、江戸・日本橋から高井戸宿まで4里(約15km)と遠かったため、元禄12年(1699)2月に45宿目の新しい宿場が開設されました。その宿場町の一部が高遠藩内藤家の屋敷地でしたので内藤新宿といわれた。明治18年(1885)に日本鉄道品川線(赤羽〜品川)が開業した。山手線の前身である。北関東、東北地方からの物資を東海、京阪地方へ輸送のため。蒸気機関車に2両編成、一日3往復。赤羽〜品川(20.8キロ)1時間6分運賃は3段階、上等70銭、中等46銭、下等23銭。半に一本。一日五十人程度。雨の日は乗客のない日もあった。明治30年、駅構内で狐の親子が轢かれたという記録が残っているという。
天龍寺(新宿4-3-19)
幕末に刊行された『江戸名所図会』には、時の鐘の所在地として、本石町のほか、浅草寺、本所横川町、上野、芝切通、市谷八幡、目白不動、赤坂田町、四谷天竜寺とある。ここの鐘は、他の鐘より30分早目に撞いたといわれている。それは江戸城までの通勤の時間を考慮してのこと。また、宿場に泊まっていた旅人や遊郭の客なども、この鐘を合図に出発したので、別名追い出しの鐘とも云われていた。
雷電神社(新宿区内藤町)
甲州街道に並行する細い路地のような処にある雷電神社。主な御祭神(ごさいじん)は、天地に轟き、火と水の大いなる働きをつかさどりたもう、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)・大雷大神(おおいかづちのおおかみ)・別雷大神(わけいかづちのおおかみ)。雷電神社の總本宮は上州板倉町の雷電神社である。関東に多く雷電神社が存在する理由は、その名の通り雷の発生が多かったからと考えられる。雷除け、厄除けの神様として信仰を集めている。
東京道の情報館(新宿区内藤町)
甲州街道添いの新宿高校のグランドと新宿御苑の新宿門にはさまれた一角に「東京道の情報館」がある。その前庭に二つの親柱が建っている。左の写真は新橋の親柱、右は京橋の親柱。近くで見るとかなり大きい。
ここで、「五街道ウォーキングマップ」をゲット。これは役に立ちそう。
東京みちの情報館 
TEL.03-3226-6712
  入館時間 : 10:00〜17:00
  休館日  : 土曜日・日曜日・祝日
  入場料  : 無料

 
新宿御苑(新宿区内藤町)(4/11は時間の関係で御苑の中には入らず。)
江戸時代に信州高遠藩主内藤氏の屋敷があったこの地に、新宿御苑が誕生したのは 明治39年のこと。皇室の庭園として造らたが、戦後、国民公園となり、一般に親しまれてきた。広さ58.3ha、周囲3.5kmの庭には、プラタナス並木が美しいフランス式整形庭園と 広大なユリノキが高く聳え、明るくのびやかな景観を呈しているイギリス風景式庭園、これに日本庭園を巧みに組み合わせていて、全体的には近代西洋庭園ということが出来る。現在、75種、約1500本の桜があります。
新宿御苑散歩道(新宿区内藤町)
御苑の北側、甲州街道添いの道が、散歩道として解放されている。森林浴をしているような清々しい気分である。四ツ谷大木戸門入口まで780M、いそんな人が歩いている。犬や猫の散歩をしている人、ベンチでお弁当を食べているサラリーマン。お喋りを愉しみながら4,五人の女性グループ。なんたって私たちのグループが一番。なにせ16名の大所帯。右側はすぐ御苑であるから、借景を愉しみながらのんびりと歩けるいいコースである。
多武峰神社・駿馬塚(新宿区内藤町)
内藤家は将軍の鷹狩などに随行する役目を負っていした。その時に家康から「馬が一息で駆け回れる土地をやる」と云われ、走った結果が24万坪のこの地を拝領したそうです。西は代々木、東は四ツ谷、北は大久保まであったと言われています。その時に走った馬は息を絶えてしまい、多武峰神社に駿馬塚として供養したそうです。
四ツ谷大木戸跡・玉川上水水番所(四ツ谷四丁目)
写真は四ツ谷3丁目角にある四ツ谷大木戸門跡。江戸市中の出入りをチェックした番所。この他に高輪大木戸があった。このすぐ脇に玉川上水水番所があった。4代将軍家綱の頃、江戸城の西部と南部の給水を目的に幕府が江戸の町人玉川庄衛門・清右衛門兄弟に工事を請け負わせ、承応三年(1654)六月に完成したのが玉川上水である。 上水は多摩川の羽村に堰を設けて取水し、ここ内藤新宿の水番所まで43キロメートルは堀割で、ここより江戸市中には地下に(暗渠)石樋・木樋といった水道管を埋設し通水した。玉川兄弟は、途中幾多の困難に遭遇したが、工事の責任者川越藩主松平伊豆守の家臣安松金右衛門の協力もあり、結局一年五ヶ月程という、現在でも難しいほどの短期間で完成させている。 掘削によってでた土砂は掘割の両側に堤として積み上げ、桜並木などをつくり(小金井など)、当時江戸の人々の行楽の場所ともなっていた。
聖徳記念絵画館(新宿区霞岳町)
聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳を永く後世に伝えるために造営されたこの施設は、神宮外苑のシンボルといえる存在です。青山通りの外苑入口から銀杏並木越しに見える石造りの外観は、周囲の森とあいまって荘重な趣をたたえ、東京を代表する風景のひとつとして広く親しまれています。
明治神宮外苑(新宿区霞岳町)
神宮外苑は、明治天皇・昭憲皇太后のご遺徳を永く後世に伝えるため、民間有志により結成された「明治神宮奉賛会」が中心になり、国民の浄財によって造成され、大正15年10月22日に明治神宮に奉献された。なお、明治神宮の創設は大正9年のこと。彦根藩下屋敷跡に建設。全国からの十万本余りの献木で「代々木の森」になった。その後空襲で焼失し昭和33年11月、国内・外からの多くの浄財が寄せられ、神社建築の粋を集めて造営された現在の社殿が復興されました。この辺りは明治の頃青山連兵場であった。連兵場が日比谷から青山に移る時、陸軍は丸の内の所有地を三菱に払い下げた。これが現在の丸の内オフィス街であり、日比谷連兵場は、現在の日比谷公園である。
大江戸線青山1丁目駅解散
予定通り午後一時に青山1丁目駅に着く。参加者の中には若かりし日に関わった場所で、当時を思い出し感慨にふけっていた人もおられた。また、こんなところにこんなものが残っていたと、新しい発見に喜んでおられた人もいて、講師としてとても嬉しかった。これからも皆さんが満足できるコースの開拓に努めよう。生徒のみなさんお疲れ様でした。

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