大江戸線界隈探検隊
読売文化センター講座(新宿・金町教室)
中井周辺は武蔵野台地の東端部分にあたり、また落合は豊島台地の西端に位置している。最も低い部分を流れる妙正寺川沿いは豊島台地が浸蝕され河岸段丘となり、その斜面地はかつて緑が濃く、唐松や赤松の林であったといわれている。 特に川の北側は傾斜がきつく、自転車では登れないような急勾配や石段があり、一の坂から八の坂まで名前がついている。この一帯は縄文・弥生時代から奈良時代の遺跡が多数発見され河川流域に発達した文化の様相を垣間見ることができる。 |
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林芙美子記念館 | 表門 | 玄関までのアプローチ | 庭から見た家屋 |
4の坂の一角を占める芙美子の家。昭和16年から26年6月に生涯を閉じるまで住んでいました。敷地約500坪の平屋建て。 | 編集者たちが、毎日何人もこの門をくぐったのでしょうね。時には居留守を使うこともあったそうですよ。 | 孟宗竹をうまく配置したこのアプローチは素晴らしいです。 | 放浪の生活を送った芙美子にとって、家とは特別なものでした。細部にいたるまでこだわりを見せています。 |
女中部屋 | 自慢の台所 | 小間 | 書斎 |
外国旅行をした際に乗った寝台車からヒントを得て作られた2段ベット。 | 芙美子はたいそう家事が好きだったようです。人造石研ぎ出しで造られた流しと床は芙美子の自慢でした。 | 芙美子の母・キクさんが使っていた4畳半の部屋。南に面して張り出しているので居心地がよさそうです。 | はじめは納戸であったが、いつの間にか書斎になってしまった。納戸とは思えないほどの趣向が凝らされています。 |
目白学園遺跡資料室 | 中井御霊神社 | 本殿 | 年代ものの狛犬 |
昭和25年に目白学園の敷地内で遺跡発見され、現在までに12回以上に及ぶ発掘調査が行われた。合計138軒の竪穴住居跡が見つかり、縄文、弥生、奈良時代のものであることが確認されたそうです。 | 8の坂を上がったところにあるこの神社は、安産・子育ての神様として信仰を集めています。 | 「お備射祭り」は有名で、年の初めに豊作を祈る神事として、江戸時代から今日まで続いています。この本殿から、鳥居に掛けられた的に向けて矢を射るそうです。 | 金網に囲われた狛犬は、正徳5年(1715)の作です。写真ではよく見えませんがかなり風化しています。 無理もありませんよね。288年もの間雨風にさらされていたのですか。 |
妙正寺川 | 萬昌院功運寺 | 吉良家の墓 | 歌川豊国の墓 |
西武新宿線の踏切を渡ると間もなく妙正寺川にぶつかります。けっこう水がきれいでびっくりします。水深が浅いのでボラもここまでは上ってこないでしょう。 | 萬昌院は天正2年(1574)、今川義元の子、長得が開いた曹洞宗の寺です。功運寺は慶長3年(1598)に永井尚政が開き、それぞれいくどもの移転を重ね、最後にこの地に移り合併されました。 | 吉良上野介の墓は一番右端です。 「忠臣蔵」では敵役ですが、実際には善政を行って人々から慕われたと言われています。 |
浮世絵師、歌川豊国の墓。上台に大きな字で歌川と刻まれているのがわかりますか。こういうのはあまり見たことがありません。家紋などを彫ってあるのを見たことはあるのですが・・・。 |
林芙美子の墓 | 豪農・鈴木家 | かきねの曲がり角 | 縄飾り |
これが芙美子の墓です。ちょっと小ぶりでつつましやかです。戒名はなく、林芙美子の墓と刻まれています。いかにも彼女らしいですね。 | 上高田3丁目にある、おおきな農家・鈴木家はこの辺りの地主さんだそうです。 | 童謡「たきび」はこの竹垣から生まれました。作詞者の巽聖歌は、この近くに住んでいて、この辺りをよく散歩したそうです。 | 竹垣に珍しい縄飾りを見つけました。よく見ると鶴と亀の模様です。いまでもこのようなことができる職人さんがいるのでしょうか。 |
北野神社 | 力石 | 新井薬師 | お願い地蔵 |
新井薬師公園の裏にある北野神社。天正(1573〜1591年)年間には、既に新井の里の鎮守であったといわれています。紅白の梅が満開でした。11月の酉の市には賑わうそうですよ。 | 境内の片隅に不思議なものがありました。名前や重さのきざまれた十数個の「力石」です。かつては神事・通過儀礼のひとつとして、祭りの日、若者たちがこの石を持ち上げ競い合ったそうです。 | 正式には梅照院薬王寺という真言宗のお寺です。子育てと眼病にご利益があるといわれ「子育薬師」「治眼薬師」とも呼ばれ、多くの人々の信仰を集めています。 | 薬王寺の門に近いところにある「お願い地蔵」は、一種の水掛地蔵で柄杓で水をかけ、治して欲しい場所をこするのです。巣鴨の刺抜き地蔵はたわしでしたが、ここではスポンジがおかれていました。 |